140 / 336

第140話 匠

 俺が待てと言えば、必ずじっと待ってる子犬はきっと家に戻れと言われれば、嫌々でも戻るだろう。けれども、本当は一番帰したくないのは俺。  素面じゃ無理だ。泣きそうな顔見たら抱きしめて離せなくなる。酒の力を借りてきつく言う。でも今、家族に理解してもらえなくてもいいと意地をはれば、この先こじれてしまうのは見えている。  一時の遊びじゃない。だからこそ時間をかけなきゃいけないこともある。  あまりにも容易に俺の手の中に落ちてきた上原に、これからも全てが上手くいくような気がしていた。  考えてみれば、上原には以前彼女がいたと聞いている。俺に出会わなければ、見合いで結婚して、お兄さんと同じように家庭を築き、幸せに過ごして行くという選択肢があったはずだ。その可能性を摘み取ったのは俺。  「田上さんが、いたずらや遊びであの子を振り回していると考えるのも自然な事でしょう。あの子はまだやっと社会に出たひよっこだ。初めて見た信頼できる他人の大人であるあなたに素直なあの子が懐くのもよく分かります」  そう上原のおじいさんに言われて反論出来なかった。  「正直なところ一番は諦めて、別れていただく事だと思っております」  当たり前の話だ。この人達が上原をどれだけ大切にしているのかは分かっている。上原は素直に真っ直ぐ愛されて育っている。  「では、本気だと証明できればお許し頂けるのでしょうか」  「さあ、それはどうでしょうね。認めざるを得ないと理解できればそうなる事もあるかもしれませんな」  上原は単なる一時的な身体の関係の相手じゃない。確かに身体の相性も良いけれど、それだけじゃない。あいつといると生活に彩りがでる。今までなかったいろいろな感情が沸き起こる。それを他人に理解してもらいたいと言うのは傲りだ。  本気だという事を証明するってどうやれば良いのか。家族に縁を切られ、早々に諦めてしまった俺には解らない。  上原をこのまま手元に置けば、上原とその家族との溝は深まるばかりでよいことなど無い。それも真実だ。 「わかりました、帰るように話します」  そう言った自分の声は震えていた。

ともだちにシェアしよう!