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第164話 匠

 上原の荷物は何一つここから出したくない。本当なら上原本人もここに閉じ込めて腕の中に囲い込んでおきたい。  上原がここにスーツケースを持って転がり込んできてから、まだ数ヶ月しか経っていないのにまるで今までずっと一緒に生きてきたような気がする。  特定の相手がいない時は誰もこの部屋に入る事はなかった。自分の時間と空間がないのが嫌で一夜限りの相手を連れてきた事はない。それなのに今は上原がいて初めて呼吸できる。いないと空気が冷たすぎて、肺だけでなく心臓まで凍りそうだ。  「蓮、ここにおいで」  名前を呼ぶとふわっと綿菓子のように甘く柔らかく笑う。抱き合っている時に名前を呼ぶと瞳が色を含んで揺れるが、それ以外の時は甘い笑顔だ。  呼ばれて腕の中に転がり込んできた子犬を膝に乗せて後ろから抱きしめる。首筋を舐めると「ん」と甘い声を出して身体がきゅっと縮む。  「匠さん、もう今日は無理ですから」  そう言いながら、身体を捩って俺の首の周りに手を廻す。そして俺の舌先を自分の舌先で、くすぐる。  「お前、言ってる事とやってる事がちぐはぐだな。これ以上煽るともう一回ベッドにもどすよ」  下を向いた上原は反論しない。ふとおかしくなってクスクスと笑いながら抱き上げる。上原は右手を俺の首にかけると大人しく抱き上げられた  以前、家族にこだわるのはなぜかと聞かれた。いつか誰かに言えたなら少しは気が楽になるんだろうか。  最初に好きになった人が悪かった、母の親友の息子。そして姉貴の初めての彼氏、片思いで終わるはずだった。  姉と付き合いだした時は苦しくて悲しくて、二人並んだ姿を想像して泣いた。みんな本当に喜んでいた。親友で親戚になるかのだと、楽しそうにしていた、俺だけを除いて。  それでも感情を隠し通して、幼馴染としてそばに居た。いつもじゃれあうようにして時を過ごしていた。  そして事態は変わった、二人でこっそり見たAVの後の悪戯だった、それから俺たちの関係は変わっていった。だけど、誰にも言わなかった。言えなかった。  そんな関係が終わりを迎えたのは俺が中三、あの人が高三の夏。誰もいないはずの彼の部屋に突然、姉と彼の母親が入ってきた。その後は修羅場だった。様子がおかしいと彼の母親に訴えた姉は、薄々俺たちの関係を気づいていたのだろう。半狂乱の女性になす術もなかった。  心が弱かった彼は自殺未遂。家族は崩壊し、全てを失くした。  祝福されるとは思っていない。けれど上原の家族をバラバラにする事だけは出来ない。目の前にいる真っ直ぐな強い心を持った恋人を改めてみる。この笑顔だけは守りたい。

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