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第176話 匠

 上原の自宅と俺のマンションは行き来するのに車の方が便利だ、電車だと一度新宿まで出なくてはならないから遠回りになる。  一緒に出かけるにも電車よりもいろいろと便利だ、抱きしめたい時に手が伸ばせる距離がいい。そう思って車を買おうかと言ったら上原がちょっと嬉しそうに微笑んで、恥ずかしそうに下向いた。  「はい」と、小さく頷く姿が可愛い。  「こんな可愛い状態の蓮を残して会社に行くのもったいないな」  ため息が出た。そう言うと上原がいつものように赤くなる。これ以上ここにいるとまた押し倒しそうだ。  「まずいことになる前に会社に行くよ」  マンションを出て会社に向かいながら考える、預かって下さいと言われたけれど、いつまでも俺の手元に置いてて良いとは言われなかった。  落ち着いたら一度腰を据えて話をしなくてはならないだろう。いつもと違う満員電車に苦労しながら会社に向かう。早く家を出るべきだった。けれど、今朝の上原は可愛いかった。置いて出かけるのは本当に惜しかったなとつい顔が緩んでしまった。  レンタカーをネットで予約する、嬉しそうな顔をした上原を思い出すだけで心が穏やかになる。  「田上、どうした。今日は絶好調か?昨日の有給でデートでもしてきたのか?」  課長はいつも下世話なからかい方をする、普段なら神経に触る冗談も今日は気にならない。  「ええ、そうですね。おかげさまで」  周りが一瞬シンとなった。  「主任って彼女いたの?」  聞こえた声の方に振り返りにっこりと微笑んだ。その先には慌てて仕事に戻る女子社員がいた。  仕事終わりに、レンタカー屋の数件手前にあるケーキ屋に寄る。甘い物は普段はあまり食べないが上原の好きそうなやつを幾つか適当に包んでもらった。  「今日のお夕飯はですね、母の手伝いをして一緒に作ったんです」  あ、この顔は少し恥ずかしそうに赤くなっている。誘ってる時の顔と同じだ。こんな顔されたら、抱きしめたくなる。  「えっと、改めまして。祖父、父、そして母です。そして兄と、お義姉さんです。それで、こちらが恋人の田上匠さんです」  立ち上がって会釈した、上原の義姉さんだけが、口を開けて目を真ん丸にしてみている。  「え?ええっ?ゆ、勇さんこれはどういう事?蓮君って……男性と付き合っているの?」  もっともな反応だ、肯定も否定もしないでただ微笑むしかなかった。他の家族が誰も驚かないと言う事実に上原の義姉さんの表情が変わる。  「え?もしかして、知らないの私だけ?」  「隠しておくつもりはなかったけれど、この前言いそびれて。ごめんなさい」  ここまで堂々としていると、何も返せなくなるだろうと申し訳なくなる。それ以上何も言われる事はなかった。ただし、食事中に義姉さんに何度かちらちらと見られたのは仕方ないとしよう。  暖かい食卓、そして家族の笑顔の中心には上原がいる。こいつを必要としているのは、俺だけじゃないんだなと思う。  その笑顔が愛しくてしかたない。

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