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第194話 匠
「あれ、田上さんですよね?やっぱり、お久しぶりです。覚えてます?俺のこと?まあ、覚えてなくても仕方ないですけれどね。俺は、よおく覚えてますよ。これからよろしくお願いします」
にやりと笑われた、最初に顔を見たときにまさかとは思ったのだが。こんな事があるとは思ってもいなかった、と言うよりなぜ俺の名前をあいつが知っているのかが分からない。
毎日、同期の福田に会うために営業部へとやってくる。そしていつもちらりとこちらへ視線を投げて、意味ありげに笑う。これは、本当に精神衛生上良くない。
別にやましいことは無いが、知られたくない事が無いわけではない。上原は何かを感じているらしい、知り合いかと聞かれた。知らなくは無いが、知ってるとも言えない。
一昨年、上原と出会う前に関係を持ったか事がある相手だろう。多分、間違いない。紺野と別れて他に恋人は要らないと、時折ネットで一晩だけの相手を探ていた。お互い名前も明かさず一晩をともにするだけ。偶然二度、会った大学生がいた。
名前も聞いていない。そして俺も名乗っていない…はずだ。
そいつがニコニコして毎日やってくる。
最初に声をかけられた時に冷水をかけられたような気分になった。あの当時はお互い一晩限りで、あと腐れも無い……そんな関係が楽だった。今日もやってきた横山は同期の福田がいないと知ると、つかつかと寄ってきて小声で話しかけてきた。
「田上さん。今日、食事にでも連れて行ってもらえませんか?俺は帰りは何時でもいいんで、一人暮らしなんですよ」
誘われている、何を言いたいのかはわかる。
「いや、俺は今恋人いるからそう言った用件なら他を当たってくれ」
振り返らずに小声で淡々と答えた、上原には聞かれたく無い。
「別に俺は構いませんよ。そもそも男同士なんて快楽のためだけにヤってるんだし。操立てる意味も分かんねえし」
会社だぞここ、そう怒鳴りたくなった。
「あれ?横山?どうしたの?」
福田が上原に連れられて書庫から戻ってきた。これ以上この話題はまずい、上原の支援がちくりとささった。
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