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第198話 匠

 さっきの横山の唇の感覚が残っていて、今上原と口づけるのは無理だと思った。その気持ちからふと顔をそらしてしまった。  気が付いただろうか?上原は何も聞いてこない。部屋に上がる瞬間に、上原の横をすり抜けるような形になってしまった。その時、決して笑顔を絶やさない上原の横顔が少し歪んで見えた。  「あ、匠さん。浴槽にお湯張ってありますから、入ってきてくださいね。今日は先に休ませていただきます」  「ああ、ありがとう。お休み」  声をかけると上原が微かに笑って寝室へと向かっていった。いくら出会う前の事とはいえ横山との事は聞きたく無いはずだ、何も言わない方がいいんだと思っていた。  今日の夜、横山と一緒にいた事も伝える必要はない。余計な事を言って波風を立てるのは良くない。  そう考えていた。何でも相談する、嘘はつかないと、上原に約束させたのは俺なのに。保身から言わない事を選んでしまった。  小さな亀裂は後から修復しようとすると倍以上の労力がいる、その事は十分に分かっていたはずなのに。  風呂から上がると、もう上原は眠っていた。寝室に行きそっと髪を撫でる。お前だけは失いたくない。過去は過去だが帳消しにはできない。そしたそんな過去ををさらけ出して、上原に嫌悪感を持たれるのが怖い。  こいつはそんなやつじゃ無いと、一番知っている。それでも少しでもかっこつけたかった。 週末は二人で少し遠出をしよう。桜を見に行こうと考えながら上原の髪を梳き上げた。  「おやすみ」  そう小声で囁いて、ベッドに入り愛しい恋人の身体に手を回していつものように眠りについた。

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