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第254話 匠
江口が俺に声を掛けてきたのは、新しい事業部に挨拶に上原が移動になった日の午後だった。
昨日の夜、腕の中で新しい部署でも頑張ると言っていたのに。あいつと一緒なのかと思うと気が重い。
さすがに大人だし、仕事上の付き合いだから何もないとは思うが、価値観の違う人種の考える事は理解できない。
今夜、きちんと上原に伝えるべきか?老婆心か?
変な先入観を植え付けたくないという思いと、用心してほしいという思いとが交差する。リビングでどうするのが正解か、考え込んでいたらドアが開いた。
「ただいま。匠さん、今日は早かったのですね」
「おかえり、新しい部署はどうだった?」
「匠さんの同期の江口さん、すごく印象が良かったですよ」
意外な答えが返ってきた。社会人としての常識はあるらしい。下手にこいつが予防線を張ると変になるかもしれない。嘘はつけないやつだし、やはり余計なことを伝えるのを止めておこう。
本当はこの時、言うべきだった。そう後悔するのはまだ先の事になる。
「飯、混ぜご飯と商店街で買ってきた唐揚げがあるから」
「ふふ、良い匂いしてたから、そうかなあって思っていました。匠さんのお味噌汁って美味しいですよね」
「お前の作るのも最近は何とか食べられるようにやってきたよ」
からかったつもりだが、何故か「ありがとうございます」と嬉しそうに笑う。こいつは本当に前向きな思考をしている。俺とはいろいろと方向性が違っているようだ。
「じゃあすぐに着替えてきますね、待っていて下さい」
スーツを脱いで着替えただけで、幼く見える。明日も頑張ろうと笑うその顔を見ながら、きっとこいつなら大丈夫と考えていた。
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