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第268話 匠

 穏やかな日々が続いていくと思っていた。  新しい部署でも一週間が経ち、業務の流れが見えてきたのか上原の周りから神経質な空気が消えた。以前のように甘えた目で追ってくれるようになり安心した。  ただ時折、会社で胃痛の種を拾ってしまうことがある。  例えば社食、上原と食事をするのは江口の特権になってしまったのだ。二人で並んで食事をしている姿を偶然見つけたときは、思わず目を逸らしてしまう。  楽しそうに他の男の隣で笑うなと、理不尽だと分かっていても注意したい。心の中は穏やかではない。なぜ並ぶんだ、お前どうして隣に座っているんだ。混んでる社食でそこしか空いてなかったのか?だったら離れて座れよと文句のひとつも言いたくなる。  見て見ぬふりをしていたのに、立ち上がった時にこちらをふと見た江口と目が合った。上原は江口の方を向いているから俺に気がつかない。  その時俺の顔を見ると楽しそうに口角を上げた江口の手が、すっと上原の腰に回った。  ぴくんと驚いて、上原が跳ねた。  その様子を見てしまった、瞬間に頭に血がのぼる。  「ああ、ごめん。タバコ落ちちゃったからさあ。手、当たった?」  俺に聞こえる様に大きな声なのだ。江口の性的趣向は女性のはず、なのに何だ今のは?何なんだ。  まさか二人に近づいて行き、江口退けという訳にもいかない。江口は勝ち誇った様な顔でこちらを見ている。大きく息を吐き、仕方なく社食を後にした。

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