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第280話 匠

 何故、江口があそこまで敵意を剥き出しにしているのか、以前から不思議だった。入社して以来ほとんど接点はない。新人教育のオリエンでのプレゼンに負けただけで何年も引き摺っていたと言うのは得心がいかない。  ようやくその原因が見えたのは、給湯室の噂話からだった。  女性のネットワークには本当に敬服する、一体どこからそれだけの情報を仕入れてきたんだと思う。  上原と俺の関係を知ったらどうなるかなと、不安にもなる。  別に聞き耳を立てていたわけじゃない、声が外まで漏れてきたのだ。「だから、違うのよ。江口さんが田上さんをやっかんでるってこと」  思わず足を止めて給湯室横の壁に寄りかかり、見えないようにして聞いていた。  「部長のお嬢さんよ、江口さんかなりお熱だったのよ。ほら秘書室のあの色の白い」  「あ、その人知ってますよ!ミスなんとかだったって聞きました」  うちの課の山中さんだ、普段だったら注意する場面だろうが、今はこの話が気になる。  「そう、その人に江口さんモーションをかけてて、秘書課でもしつこくて有名だったって。秘書課に立ち入り禁止になったすぐ後に、田上さんに部長が自分の娘との縁談って話持って行ったみたいで……」    ああ、なるほどね。ここまで聞けば十分とデスクに戻る。後しばらくはあのくだらない噂話は続くんだろうと思う。  確かに部長にお見合いの話を持ち掛けられた、会わずにことわる方が無難だと思い、会うことさえしなかったが秘書課に居たとは知らなかった。  なぜか俺はいつも江口とぶつかる、最初のプレゼンのグループも同じだったし。  上原の取り合いにならなくて、本当に良かったと思う。  そう思うが、気になる。あいつも上原の事を可愛いと言っていた。まさか……いや……まさか、それはないはず。

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