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第290話 匠

 時折、社内で江口が上原と一緒に居るのを見かける。俺に気が付くと、わざと上原の腰に手を回す、その度に上原がさっと自然に振り払う。  あまりに自然にかわすので、却っていつもの事なんだとわかり腹が立つ。  それでも日々は穏やかに流れているような気がしてた。  夏の暑い盛りに起きた大騒動も秋とともに落ち着いたようだ。俺は可愛い恋人を抱きしめて眠れる夜に満足し、もう周りの喧騒も聞こえなくなったと思っていた。  「蓮、来月の連休どっか出かけようか」  「あ、シルバーウィークですか?はい」  嬉しそうに答える恋人の姿を見て、たまには二人で旅行なんて良いものだと思っていた。上原が飛んでもないことを言いだすまでは。  「できれば、匠さんの育った街に行ってみたいのですが」  「ええっ?」  「匠さんの事もっと知りたいと思うのですが、駄目でしょうか」  そんな真っ直ぐな目で見つめられると答えに窮する。  「あ、いや。その駄目っていう訳ではないが、何も無いところだよ」  「それでも行ってみたいです」  実は親と縁を切って以来、一度も行ったことが無い。同じ関東とは言え北関東のあの街にはあまりいい思い出がない。  「蓮、俺は高校は地元って言っても実家から離れたところで独り暮らしだし、大学は東京だから育ったところと言われてもなあ」  「匠さんの産まれたところに行きたいのですが」  そこまで言われると仕方ない。実家に行くわけでは無いから良いかも知れないと思ってしまう。「どうするかな」そう小さく呟くと、上原は俺の膝に乗り首に手を回してきた。もう頷くしかない。  「蓮、甘え上手になったよね」  上原はふっと小さく微笑むと、柔らかいキスをひとつ落としてくれた。

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