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第292話 匠

 失敗した。  懐かしくて何だか嬉しくて、いつの間にか実家の近くまで来てしまった。気がつけば通りの向こうに見えるのは見慣れた家並み。  一瞬足が凍りついた、見慣れた庭に見慣れた女性が赤ん坊を抱いてあやしていた。  俺の表情とその視線の先を追った上原が、すっと俺から離れて歩いて行った。  「こんにちは、良いお天気ですね」  「こんにちは、あら、どちら様だったかしら?」  「いえ、通りすがりなのですが。お孫さんですか?可愛いですね。もうすぐ兄のところにも赤ちゃんが生まれるので、つい。すみません、突然話しかけて」  「あら、そうなの?娘の子よ、可愛いでしょう」  「はい、可愛いですね。あの図々しいお願いですが、よかったら少し抱っこさせてもらえませんか?」  その赤ん坊は上原に手を伸ばしている。その姿を見た瞬間、自分の目から涙がぼたぼたと落ちるのがわかった。  何、泣いてるんだ俺。  泣いたのは記憶にないほど昔の話、これが何の涙か解らない。ただ止まらない感情が溢れてくる。  ここはまずい、あの庭から見える。そう思い急いで身を隠した。右手で口を覆い、角の家の塀に隠れた。赤ん坊の笑い声と、話し声が聞こえてくる。  「すごく利発そうなお子さんですね、お名前は何て言うのかな?」  「しょうたと言います、匠という漢字に太いと書いてしょうた」  「ああ、とても素敵な名前だね。匠太くん、初めまして」  「あの、写真を一枚だけ、撮らせてもらっても良いですか?」  「ええ、どうぞ」  「それと、もう一つお願いがあるのですが。写真に一緒に入ってもらえませんか?ありがとうございます、お邪魔しました」  「私からもお願いがあるのですが、いいですか?」  「はい?何でしょうか」  「さっき一緒にいらしたお友達に、よろしくとお伝えください。みんな元気にしていますよと」  「はい、必ず伝えます。失礼しました」  上原の足音が近づいて来た、何も言わずに俺の手をそっと包み込んだ。  「匠さん、連れて来てくれてありがとうございます」  そう言って微笑んだ。

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