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第309話 匠
上原は少し考えているようで、瞳が少し左右に揺れる、だが身体は動かないし何も言わない。その時、上原の携帯から着信を知らせる音がする。
「あれ、ザックからだ。ちょっとすみません」
上原はひとこと断ると携帯に応えた。多分学校から帰って、一人でどこへも行けるはずのない上原がいないと焦ったのだろう。心配して電話してくるのも理解できるが、ここでも邪魔をされるのかと一瞬不快になる。
「大丈夫だよ、田上さんと一緒だから。え、何の事?違うよ。外に連れ出してもらっただけだから。うん、すぐに帰るから。わかった」
会話から俺が無理に連れ出したのだと言われたのだと分かる。帰ってこいと言われたのだろう。部屋を見せてそれから帰るという選択肢もあるが、上原はどうするのか。
「田上さん、帰ります。すみません、せっかくのお休みを潰してまでお付き合いくださってのに何もわからなくて」
「いや、蓮に思い出して欲しい事があるのは俺の方かも知れないだろう」
首を傾げだ上原が言う。
「思い出すって感覚が良く分からないんです、何を忘れているのかさえわからなくて」
一番辛いのはこいつなのだ、部屋に上げて思い出せばと、その先を自分の都合の良いように考えていたから躊躇したのだ。それでは駄目なのだ、自分のためではなく上原のために記憶を取り戻してやらないといけないのだ。
「蓮、部屋に入ってみないか?部屋を見てすぐに帰れば良いだろう」
二人の時間を持つためにここに連れてきたと言う思いがどこかにあったから緊張していた。そうじゃない、上原のためにここに連れて来たのだ。
「コーヒー飲むくらいなら良いだろう」
「ええ、そうですね」そう言うとふわりと笑う上原がいた。
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