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夢見の悪い日に5 《涼香》
土砂降りの雨。
『水族館に行こう』
お母さんの言葉に何となく違和感を覚えた。
お父さんはと聞くと、彼女は寂しげに微笑むだけだった。
『僕が着いていくよ』
ふと現れた当時運転手をしていた男、森口は俺の頭を撫でた。
嫌いだった、彼が。
お母さんは、その頃には森口ばかり見つめていた。
三人で土砂降りの中、水族館へ行った。
車での道のりはやけに長く感じた。
車内は夏なのにひやりとした空気だった。
少しの人混みに紛れて水槽を眺めた。
魚も水もライトも青い。
冷たくて、どこを見るでもない魚の目が怖かった。
お母さんと森口の話し声も耳に入った。
『置いていきたくないわ』
『仕方ないよ』
楽しめたかと言われれば楽しめなかった。
魚もアザラシもイルカもやけに寂しく思えた。
ぬいぐるみを買おうかと言われたのも断った。
次来たときでいいと言ってみると、二人とも困ったような顔をした。
子どもながらに詮索して、違和感は確信に変わっていく。
帰りの車の中は打ちつける雨とクラシックの音で満たされていた。
母を見ても、もう俺を見てはくれない。
これでお別れなんだ。
確信して、絶望して、過ぎる景色を眺めた。
雨でかすむ灰色の町。
孤独だった。
俺から手を伸ばせばよかったのかもしれない。
せめて言うべきだったんだ、行かないでと。
そうしたら、こんなにも未練は残らなかったはずだから。
彼女の横顔はきれいだった。
信号で車が止まり、お母さんはミラー越しに森口と目を合わせた。
穏やかな笑み。
俺に向けられていたそれは、あの人のものになってしまった。
少しだけ弱まった雨はまだ止みそうにもなかった。
泣きそうになるのを耐えた。
車は動きだしトンネルに入った。
点々と灯るライトが通りすぎていく。
そろそろ家についてしまう。
お別れだ。
声をかけることも、どこかに寄ってなんて時間稼ぎもできない。
彼女もなにも言わない。
『ずっと、側にいるよ』
いつかの言葉が頭をめぐる。
お母さんは嘘つきだ。
そう言いきって切り捨てる事ができたらどんなに楽だろう。
裏切り者と大嫌いだと思えたなら。
滲んでくる涙を零さないように必死だった。
せめて降りてから泣こうと心に決めた。
トンネルを抜けてまた雨が降り注ぐ。
お母さんが幸せになるのなら、それでいい。
それでいいから。
僕は一人で平気だよ。
俺は、ひとりでもきっとやっていける。
家の前についた。
車のドアハンドルに手をかけてほんの少し躊躇する。
降りなければ、彼女が行かないでくれるんじゃないか。
もしらしたら手を取って引き留めてくれるんじゃないだろうかと。
けれど、結局はなにもない。
黒い傘を広げた国木田がやってきてドアを開け、静かに俺に微笑みかける。
堪らずに涙が溢れそうになり、俺は車を飛び出して大粒の冷たい雨の中を走るのだ。
いつもならそうなのに……。
車の中、シートに置いた右手にふと、熱を感じた。
見ると手を握られている。
お母さんかと思ったけれど違った。
大きくて少し節ばった手。
どきっとした。
『涼香ちゃん』
なんて暖かいんだろう。
その手も、その声も。
顔を向けると、桜井が俺に微笑みかけていた――。
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