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すきま1 《涼香》

桜井龍太郎に迫られて、ただただ恥ずかしかった。 もう少しで触れそうだった彼の薄めの唇や、見たことのない真剣な眼差しも、頭から離れてくれない。 思い返しても”気持ち悪い“なんて思えないでいる。 「坊ちゃま、ソースが零れますよ」 国木田の声にはっとした。 フォークに刺した一口大のハンバーグから、デミグラスソースが雫のように垂れ落ちそうになっていた。 慌てて口に含む。 夕飯前に着替えておくべきだったなと思う。 寸でで制服の白いシャツに染みができるところだった。 おかしい。 思い返しては、ぼーっとしてしまう。 あいつのせいだ。 「桜井様とは。仲良くされてますか?」 ふいに国木田に言われ、ドキっとした。 横目で見ても、襟ぐりを整えていてただ手持ち無沙汰なだけのようだった。 「……別に。というか座ったらどうだ? そんなとこに立ってないで」 「ではお言葉に甘えて遠慮なく。あ、人参も食べてくださいね」 「わかってる。いちいちうるさい」 隣の席に国木田は座り、微笑ましげに俺を眺めた。 いつものことだが、若干鬱陶しい。 ハンバーグの隣に転がっている人参のグラッセをフォークに突き刺し、口に入れた。 甘過ぎずバターの香りのするそれは、俺好みの味付けだ。 「少し砂糖を入れすぎたのですが、お口に合います?」 「こんなもんだったろ、うまいよ」 「それはよかった。人参臭いやら甘すぎるやら、坊ちゃまの好みを見つけるまで大変でしたからねぇ」 「昔の話を持ち出すな。鬱陶しい」 皺の増えた顔で笑う国木田は、あの頃と変わらない。 突き放すでもなく否定するでもなく、ただこのままの俺を受け入れて認めてくれている。 「私も歳ですね」 国木田は静かに微笑む。 「あ、紅茶飲みますか? この間仕入れたディンブラにしましょうか。すっきりとしていて食後の口直しにも丁度良いですよ」 「いれるなら、飲むけど。もう少し休めよ、働き詰めだろ 」 「私にはそれが普通なのですよ、坊ちゃま。アイスティーにしましょうか?」 「……ああ。アイスティーがいい」 「承知いたしました。では、暫しお待ち下さい」 あの日、母と森口が出ていった日。 国木田が傘をさしてくれたのも構わずに車から降りて家まで走った。 雨と涙でぐちゃぐちゃで、訳がわからなくなっていた俺を国木田は抱き締めてくれた。 それから暫くして、彼は父の秘書を辞めて俺の側にいるようになった。 国木田自身がそう望んだのだという。 そんな馬鹿なことするなと今なら思う。 社長秘書から家政婦まがいの役職に誰がなりたいと思うのだ。 俺が彼の人生を壊してやいないかと不安にもなる。 こっそり聞き耳を立てたのは、そんな漠然とした不安があったからだ。 俺の側にいたいんだと、国木田は父に言っていた。 あなたが側にいないなら私にでしゃばらせてください、と。 それが彼女の、奥様の願いだからと。 父は暫く黙って、私を見捨てるのかと静かな声で言った。 10歳のときのこと。 母に捨てられて、父の目にも入らないで、ただ彼だけが俺の側にいてくれた。

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