176 / 204

憐憫《涼香》

もやもやとした気分のまま帰宅した。 本でも読んで忘れようと階段を登り、自室にまっすぐ向かう。 「……!」 扉を開けるとそこにはかすみさんがいて、思わず立ち止まった。 「あら、おかえりなさい」 「ただいま、です」 何でもなさそうに彼女は振り向く。 俺の部屋で何をしているのだろうと、ついいぶかしんでしまう。 察したのかかすみさんがふっと笑った。 「洗濯物乾いたから持ってきたの、ここで良いかしら?」 「……はい」 確かに彼女の手元には俺の服があった。 若干の不信感を抱きつつも机に向かい、椅子にカバンを置いた。 「涼香くん、本当にお父さんと似てるね」 ベッドの上に服を置くと、かすみさんは俺の方へ歩いてきた。 香水の香りが微かにわかるくらいに距離を詰められ、顔を覗き込まれる。 そんな彼女を見下ろしながら、どう返事したら良いかもわからず言葉に詰まった。 父と似ていると言われて、嬉しく思うわけがなかった。 黙りこくっていると、ふと彼女は手を伸ばし、その指先が俺の頬に触れた。 「雰囲気も顔立ちもそうだけど、目元なんて本当にそっくり」 見透かしてくるような視線にいたたまれずに目線を外す。 「(しゅう)さんもね、いつも寂しい目をしてた」 昨日に比べ、明らかに近い距離感に戸惑いを隠せない。 「どう、したんですか」 そっと彼女の手に触れ引き離そうとするが、彼女はただ静かに微笑むだけだった。 「私、放っておけないのよ。寂しい男の人って」 そのまま首に手を回され、気付くと抱きしめられていた。 香水のような化粧品のような香りが鼻につく。 柔らかな体の温もりを感じ、思わず彼女を押しやった。 「や、やめてください……旦那さんいるんですよね」 肩を掴んで引き離した彼女は微笑みながらも、どこか暗い目をして俺をまっすぐと見据えた。 「誰もが幸せな結婚をするわけじゃないってよく知ってるでしょう?」 決して責めるような口調では無かった。 それでも淡々とした彼女の言葉に胸を抉られるようだった。 「愛してると言われて受け入れて、信頼しようとしたところで裏切られる。相手がそうなら、私だけ貞淑な女を演じるのは馬鹿らしいと思わない?」 彼女のぱっちりとした瞳が濡れ、すぐに大粒の涙が頬を伝い落ちた。 「すいません、俺……」 再びすがりついてくる彼女を突き放すことは俺には出来なかった。 報われない、ただ待つだけの彼女の辛さをよく知っていた。 『すず、お父さん今日も遅いね』 時折、無性に寂しそうに微笑むお母さんをどうにかして慰めたかった。 子どもの俺にはただ側にいることだけしか出来なかった。 こうしてあの小さな体を包み込むように抱きしめられたら、どんなに良かっただろうと、なんとなくそう思った。

ともだちにシェアしよう!