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雨とキス1《涼香》
土曜日。
静かに雨が降っていた。
いつものように自室にこもり、この間、吉良から貰った本を最後まで読み終えた。
余韻に浸りながら窓辺に寄り外を見ると、ちょうどかすみさんが車に乗り出ていくところだった。
昼食の時に買い物に行くと言っていたからきっとそれだろう。
広い家に一人きり。
思い立って1階に降りた。
リビングの奥、庭に面した窓辺に白いグランドピアノが置いてある。
今は埃よけにカバーが掛けられていて、普段は誰も触らないものだ。
そっと椅子に腰掛け、カバーを捲り蓋を開け、鍵盤を指でなぞった。
父が母の為に買ったのだというピアノ。
母が出ていってからもずっと残っている。
幼い頃の数少ない父との思い出は、この場所での場面が多かった。
母が演奏していると父が聞きに来て、不器用ながらも家族の時間がそこにはあった。
鍵盤を指で押すとピアノの繊細な響きが部屋中に広がった。
そのまま弾き慣れたフレーズを指でなぞる。
いつしかほとんど弾かなくなったのは、ある時、父が酷く不機嫌な顔で俺を見たからだった。
夢中で暫く弾いて、満足すると、また元通りに蓋を閉じてカバーを掛けた。
外では未だに雨が降り続いている。
しとしとと庭の草木に降りしきる雨を眺めた。
「……」
ふと衝動に駆られ、2階の父の寝室に向かった。
カーテンを締め切った、物の少ないその部屋に入ると煙草の香りが鼻につく。
ベッドの向かいに置かれた腰丈の棚に真っ直ぐ近付く。
そこには未だに母の写真が飾ってある。
酷く頓着が無いのか、もしくは今もまだ母のことを想っているのか。
その真意はわからないが、時々、一人きりになった時にこうしてここで写真を盗み見ていた。
白無垢姿の母。
真っ白なワンピースを纏い青空の下に立つ母。
幼い俺と二人の写真。
木製のシンプルなフレームの写真立てを持ち上げる。
記憶よりもずっとこの写真が鮮明だからか、若く美しい母のイメージが頭にこびりついている。
ぼんやりと写真を見ていると、ふと扉が開いて、かすみさんが入ってきた。
「あら、こんなところにいたの」
驚いて立ちすくんでいると、彼女は近くに来て俺が手にしている写真を覗き込んだ。
「きれいな人よね奏雨 さん。宗さんが忘れられないのもよくわかる」
ふっと微笑む彼女は俺を見上げた。
「涼香くんも忘れられない?」
「そんな、こと……」
心を見透かすような視線だった。
かすみさんはにこりと微笑むと俺の手から写真立てをとって元の位置に置き直し、そしてずいと距離を詰めてきた。
「忘れさせてあげるよ」
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