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雪下出麦 2

 啓介は窓の外に目をやった。英策の妻の美世(みよ)が運転手とともに屋敷を出てきたところだった。英策は妻に美しくあることしか要求しない。啓介は、美世に若い愛人を差し向けたと打ち明けられたとき、英策の忍び笑いに背筋が寒くなった。そうやって、英策はたやすく人を意のままにしてきたのだろう、と。  啓介は本棚の本に激しくはたきをかけた。埃が光のなかで舞い上がる。  年末、啓介は講師として勤めている大学の教授から、新設される大学の助教授の口を斡旋された。啓介は以前から大学の教職の席を打診されていたが、その申し出はすべて英策に断られていた。  ――野呂先生は私の日本一の食客です。あなたの大学ではすこし、格が低すぎる。  啓介ははたきを手にしたまま、ぼんやりと冬枯れの庭を眺めた。白い開衿シャツに紺の半纏、灰色のスラックスを着た自分の姿が、鏡となったガラスに映っている。  長旅で浅黒くなった肌と、穏やかな目。英策には馬のような目だと言われる。そして誰からも、笑顔を褒められる。人なつこい雰囲気は、初対面の人の話を聞くフィールドワークで培われたものだ。  十年前に、啓介は英策と出会った。啓介が寄稿した民俗学の雑誌に、英策も論文を出していたのがきっかけだった。佐庭英策を華やかな御曹司だと思っていた啓介は、英策が家業のかたわらで地道なフィールドワークを続けていることに驚いた。  啓介が書いたのは、能登の長老たちによる会議の話だった。  能登の長老たちは、村に諍いごとがあると、日がな一日会議をする。会議は異論がなくなるまで何日も続けられた。そのあいだ長老たちは自由に食事に行ったり寝に帰ったりする。全会一致の意見が出ると、最後は最古参の長老が結論を出して会議が終わる。日本の忘れられた風景の一幕だった。  英策は啓介の論文を読んで、自分の「アティック・ミュージアム」を手伝わないかと申し出た。  「アティック・ミュージアム」は、英策の植物・昆虫採集から端を発した新しい博物館で、市井の人間である常民の生活を研究する組織である。大学院を出た啓介は、英策の誘いに飛びついた。当時民俗学はアカデミックな学問と見なされていなかったので、研究を続けられる大学はほとんどなかった。  「アティック・ミュージアム」は最初、英策の邸宅内にあった。忙しい英策が通えることが第一の目的で作られていたからだ。啓介に英策の邸宅の一室を与えられた理由も、最初は住まいの利便性からだった。  が、三年後、英策が美世と結婚するときに、英策と啓介の関係はねじ曲がっていくことになる。

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