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雪下出麦 4

 初めて英策に会ったときから、郷愁のような憧れを感じていた。  英策は気の優しい、洗練された名家の御曹司で、英策には絶えず羨望の眼差しが向けられていた。民俗学の学者とも親交が深く、学者に金銭を渡しては、論文や本などを書かせていた。  若いころから人格者と謳われた英策ではあったが、女性には晩稲(おくて)で、定められた結婚を何かと理由をつけては引き延ばしていた。のちに英策が、自分はひとに愛情を持てないのだと啓介に打ち明けた。博愛主義者は特別には誰も愛さないものなのだろう。  ――父に捨てられた母を哀れには思ったが、格別の情はなかったね。  英策には、本来家業を継ぐべき父が、芸者の愛人とともに家を出ていったという過去があった。英策は、十七歳のときに学問を諦めて銀行家になるよう、祖父に頭を下げられた。  ――こんな若造に土下座をする祖父が、悲しくてならなかったよ。  英策は東京帝国大学の経済学部へ進学し、祖父の経営する銀行へ入行した。  祖父は英策が銀行家として生きる代わりに、「アティック・ミュージアム」の創設を黙認した。  ――ひとを赦すことしかできない人生だった。  学者になる夢を潰した祖父を赦し、家業を継がずに愛人と逃げた父を赦し、「夫の不貞は私のせいだ」と自らを責め続けた母を赦した。英策の心のうちに真空のような孤独があることを、啓介は英策と深い関係になるまで知らなかった。  英策は三十三歳のとき、長く許嫁であった美世と結婚した。新婚旅行からの帰国後、学会の仲間内で祝いの席が設けられた。料亭でしたたかに酔った英策は、啓介を書斎へ連れ込んだ。英策は旅から帰った啓介の土産話を好んで聞いていたため、啓介が書斎で夜を明かすのを見咎める者はいなかった。  ――美世とは一生、仮の夫婦でいようと思う。  英策は旅行中、妻とは性行為ができなかったと、啓介に告げた。  ――僕にはもう、一生の伴侶と決めた人がいる。知らなかっただろう。  啓介は素直に、知りませんでした、と言った。  ――君だ。  書斎のソファに座った啓介のとなりに、英策が腰を下ろす。ふるえる手で啓介の頬を包む。  ――君が望まないのであれば、何もしない。ただ一生、僕のそばにいてくれないか。  啓介は、英策が自分にふしぎな感情を抱いていることを、何となく察していた。が、それは魂の繋がりであって、性という生臭い現象とは無縁だと思っていた。  精神的には、啓介は英策を慕っている。肉体的にはどうだろうと自問する。 『あれは佐庭先生の男芸者だ』  料亭で聞いた自分の陰口を思い出す。  啓介が今目の前でふるえている男を受け入れたとすれば、噂が実を伴うようになるだけか。啓介は自嘲した。この男の歓心を買わなければ、自分の学者としての未来が閉ざされる。  ふるえる男の肩を引き寄せたのは、最初は自分の運命を秤にかけた打算からだった。

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