5 / 7
雪下出麦 5
英策がほんとうに晩稲であることを、啓介は自分の身体で思い知った。
三十三歳という英策の歳にしては拙いまぐわいだったと、啓介は英策に手を引かれて書斎の奥の寝室へ歩きながら思い出す。かつて数人の女性と枕を交わした啓介は、英策が自分をまさぐる手はひどく素朴で無骨だと思った。
書斎の奥の寝室には、簡素なベッドが一台あるきりだった。嵌め殺しの磨りガラスの窓がひとつ、ベッドのシーツに冷たい光を落としている。
英策のベッドに座りながら、服を脱がせる手を見下ろす。あのときは啓介の身体も緊張で硬くなっていた。緊張でふるえる者同士、互いの身体に脅えながら身を寄せ合った。
英策に余裕が生まれたのは、啓介が快楽を覚えるようになったころだった。それまで英策は、決死の少年兵のような面持ちで啓介を抱いていた。
その生真面目さがおかしく、物悲しいと啓介は思った。
「あ……ッ」
耳たぶを舐められて、啓介が甘い吐息を洩らす。
「何を考えているのかな?」
「あなたと最初にこうなったときのことです」
英策は自分の服を脱ぐと、啓介と自分の服を畳んでベッドの卓へ置いた。啓介を布団へ招き入れて、自分も布団に入る。
「私が女であればよかったのかと」
「僕は君が女であればよかったとは思わないよ。君を愛したのは、運命だ」
英策の胸に引き寄せられて、顔を埋める。
ふと英策の息子の言葉を思い出す。
――お父さまのお考えが、わかりません。
控えめに呟いた六歳の真嗣(まさつぐ)は、美世に顔立ちのよく似た、聡明な少年だった。
真嗣は美世にあてがった愛人の子供だった。英策は一度も美世を抱かず、美世と愛人のあいだに生まれた真嗣を自分の跡継ぎにした。真嗣の出自を疑う声を、英策は聞かなかった。
真嗣は自分の出生の秘密を知っていた。佐庭家の外戚の差し金であろう。真嗣はいつも脅えた目で周囲を窺っていた。哀れな子供だと啓介が思っているのを察したのか、真嗣は啓介にだけは心を開いた。
――お母さまをどうして赦していらっしゃるのか、わかりません。
ねじれた運命の末に生まれた子供にかける言葉もなく、啓介はただ、真嗣のやわらかい髪を撫で続けた。
「私が子供を産めればよかった」
「仮定の話をしても、どうしようもないだろう」
英策は優しげな目で啓介を見下ろしている。普段は上げている髪が額にかかって、すこし年若い印象になる。髪を下ろした英策の顔が好きだ。自分にしか見せない、くつろいだ顔だ。
「君が女であったら、全国を旅して人々を励ますこともできないだろう。君は僕の大切な目だ。美しく、優しい目だ」
啓介は眉間に皺を寄せた。そう思っているのであれば、英策はなぜ、自分の出世の道を絶つのだろう。
「――時枝先生から、新設する大学へ就職口を紹介されました。私を助教授として迎え入れてくださるそうです。お返事はもう、しましたか」
「断っておいたよ」
啓介は息を詰めた。やはり英策は自分を手のひらで飼っておきたいのだ。
「麦は踏まれて大きくなるものだ。健やかに実をつけるまで、僕が君を踏んであげるよ」
麦はあまり丈高く育たぬよう、成長の過程で麦踏みをする。
踏まれた麦は根の張りをよくし、麦の穂へ養分を注ぐ。
「君はまだ小さな麦の芽だ。雪の下に隠れていなければならない」
英策は七十二候のひとつを語っていた。雪下出麦(ゆきわたりてむぎのびる)。冬至の末、正月の時期を指す。
麦は秋に種を蒔き、冬を越して収穫する。温かい雪の下で、麦はやがて巡り来る春を待つ。
「では、私はいつまであなたのもとへいなければならないのでしょうか」
「僕が君を守れるのは、僕が生きているあいだだけだ」
英策は啓介の頭を腕で包むと、自分の胸に啓介の顔を押しつけた。
「僕が生きているかぎり、君のそばにいることを赦してくれ」
視界が温かい闇に染まる。
「僕が望むのは、それだけなんだ」
英策は無欲な人間であった。「アティック・ミュージアム」と啓介以外は、何も望まなかった。家族の手も自分で離してしまう哀れな男に、啓介は胸を塞がれたまま、語るべき言葉を持たなかった。
ともだちにシェアしよう!