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第36話 春斗の想い

 いや、突然ではない。客の来訪に気が付かないほど呆(ほう)けていたのだ。  目の前で、穏やかに笑みを浮かべていたのは九重だった。 「申し訳ありません。気が付かなくて」 「いいのよ。考え事をすることくらい誰でもあるわ」  九重は持っていた包み紙を春斗に手渡す。 「今日は、お団子を持ってきたのよ。気晴らしに甘いものでも食べなさい」 「いつもありがとうございます」 「ああ、それと……ちょっと手を出して」  九重は懐から何か小さなものを取り出して春斗の掌に乗せる。  それはどんぐりに色鮮やかな長い紐を通したものだった。 「わたしの山で採れたどんぐりよ。根付のようにしてみたのだけれど春斗ちゃんにあげようと思って。ちょっと子どもっぽかったかしら?」 「いいえ、とても素敵ですね。ありがとうございます」  春斗は礼を述べると、それを自身の帯に結わえ付けた。 「あら似合うわよ」 「ええ、帯が華やかになりましたね」  春斗は嬉しかった。  九重のお手製の甘味はもちろん、この小さな贈り物にも心が籠っている。  九重のくれるものはいつも温かかった。 「それで、何を落ち込んでいたのかしら? おばあちゃんに話してみない?」  『おばあちゃん』そう言って惚ける言葉遣いにも優しさが含まれているのを春斗は気づいていた。春斗が話しやすいように、そう思ってのことだろう。 「ええ、大したことではないのですよ」  春斗と九重は縁側に並んで腰かけた。 「今日、ここに来てちょうど一年なんです」  九重は春斗の語りを遮らないように、穏やかな笑顔で静かに頷いた。 「一年前、人間の世界では会社員、つまり会社という組織の中で働いていました。そこでは、多くの人間が集まってそれぞれの仕事をしています。……俺はそこでは役立たずでした。何をするのも遅くて……間違いも多いし、毎日叱られていました。休みはなくて、ご飯もろくに食べていなかったんです。」 「……そうだったの」 「情けなくて、亡くなった祖母にも顔向けできないと思っていました。情けなくてどうしようもない毎日だったんです。そんな時、七瀬さんに出会いました。七瀬さんに誘われてこの世界に来たんです。」  九重は頷きながら、静かに春斗の瞳を見つめ視線を逸らさない。 「この世界はとても温かかった……笑顔がたくさんで、優しくて。初めは慣れないことだらけだし、正直怖いこともたくさんありました。でも、七瀬さんは必死に俺を守ってくれて。里緒も菜緒もたくさん心配してくれました。一度も俺を責めたことがないんです。九重様も他の皆さんも、こんな何の取り柄もない俺を、快く受け入れてくれました。このどんぐりも、とても温かい……」  春斗は帯から下がるどんぐりに優しく触れた。  九重の表情は尚も優しい。 「なんて言ったらいいかわからないのですが……ここに来られて本当によかったな。俺は幸せ者だな。って思ったんです。ただ、そんな感傷に耽っていただけなんですよ」  春斗は自身の想い吐露してしまい、何だか急に恥ずかしくなってしまった。  しかし、九重はそんな春斗を笑うことなく、優しい眼差しで見つめていた。 「春斗ちゃんは人間の世界でも頑張っていたのね。春斗ちゃんは情けなくなんかないわ。私があなたのおばあちゃんだったら、貴方を誇りに思うわ」  そう言って微笑む九重に、春斗は秋江の姿を重ねていた。 「あらあら、泣かないの。可愛いお顔が台無しよ」  九重は手拭いを取りだし、春斗の頬を拭った。  春斗は自分が泣いていることに驚いた。 「おやおや、私の可愛い春斗を泣かせないでもらいたい」  突如聞こえた声に振り向くと、七瀬が腕組みをして立っていた。ただ、その表情はとても穏やかだった。 「あら、土地神様が盗み聞きとはいけませんね」  九重は楽しそうにそんな冗談を言う。  対して七瀬は全く気にしていない様子で、春斗を足で挟むように腰を下ろし、抱きしめた。 「そんなことを想っていたのか……」 「ふふふ、これからはお二人の時間ね。私は失礼しますよ」  九重は、ゆっくりと立ち上がった。  それに春斗も慌てて立ち上がる。 「あ、お茶も出さずに申し訳ありません。こんなにたくさん話を聞いてくださったのに……」 「いいえ、春斗ちゃんのお話が聞けて嬉しかったわ。またお話ししましょうね」  足取り軽く帰っていく九重に、春斗は丁寧に頭を下げた。

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