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第17話
晴也に傾く心を落ち着かせるためにも、時間を旅館に回した。
詳しい経営状況を調べ、立地や観光地などの情報収集。さらには今後必要であろう、新たな書類作成。他にも確認したいことは山ほどある。
無心に没頭すれば、遅い時間もそれなりにちゃんと進んでくれるようで。ふと時計をみれば夕刻過ぎだった。
「おっと。18時前か」
朝から、資料とパソコンが友達だ。うーんと背伸びをして身体をほぐす。一息つくと、そそくさとリビングから離れた。自慢の喫茶店で鍛えた腕前を大いにふるい、夕食でも作ろう。
手際よく、リズミカルに包丁を鳴らして肉を切る。下ごしらえの調味料に、隠し味を少々。肉を柔らかくして下味を染みこませた。ほどよく熱した油に入れ、絶妙なタイミングでからっと揚げる。
たちまち食欲をそそる匂いがキッチンを満たしていく。そのときだ。リビングに置きっぱなしだった携帯から着信音が鳴り響いた。
皿に盛り付けをしたところで、手を置いて電話をとる。表示された着信相手を確認し、慌てて通話ボタンを押した。自然と顔つきが緩み、浮かれた声がでた。
「お疲れ、晴也さん。仕事は終わったの? この前のこと、考えてくれた?」
『あ……、うん、今、ちょうど帰ってる、とこなんだけど……』
なんだか晴也の声に元気がない。声を潜めているみたいだ。周りを警戒し、自分の存在自体を隠そうとするような。あるいは、今にも消え入ってしまいそうな。
「何かあったんですか」
秀一の声が一気に剣呑なものに変わる。晴也の声以外……周辺から、漏れ聞こえる音に耳をそばだてた。
特に何も聞こえてこない。いや違う。静かすぎるのだ。バス通勤の、晴也の帰宅路にしては不自然なほどに。
「今どの辺です?」
『その……、なんか、俺、誰かにつけられてる気がして……。家の方向と違うところをいってるんだけど、どうしよう……』
少し泣きそうな声で晴也が口ごもった。実は、晴也は、極度の方向音痴である。自分で車を運転しようものなら、知らない道を通っては、自宅へ行きたいのに他県まで行ってしまう。
いったいどこをどうして。いつもナビ通りに進んでいるのに……と半泣きで言うが、どの経路を通ったら県を通り越してしまうのか。
生まれてこのかた、一度見聞きしたルートなら、ほぼ覚えられる秀一からすれば全くもって不可解だった。
いたって真剣に、困り顔で話す晴也は、しかしそんなところも可愛くて。話題になったときは、晴也の七不思議に速攻で組みこんだものだ。
「つまり、どの辺を通ってるのか、わからなくなったんですね」
ようは迷子だ。ごめん、と、小さく項垂れた声がした。けれども晴也は悪くない。
寒さが厳しくなる季節。夕刻を過ぎれば真っ暗になるから、道はとくに見失いやすいのだ。それに本当に、晴也をつけた人物がいたなら。迷子にならずとも、こうして電話をくれてよかった。
「ひとまず、近くの電柱に住所がのってませんか? 見つけたら写メとって送ってください。俺がそこまで迎えに行くから。それから電話をし続けて。もし晴也さんをつけてる奴がいたら、手出ししにくくなるように見せかけて。あと大きな道に出て、どこかの店に入ってください。店に着いたら、店の名前を教えてくださいね」
『う、うん』
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