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第46話
「婚約だと? 俺は納得してない。所詮は権力にものを言わせた関係だろ。家の名を借りて、こんなあくどい手を使ってくる奴は運命じゃなくても願い下げだ。仮にだ。君と俺が番になったとしても俺に何も期待するな」
もしも番になったとしたら、秀一は、ヒートの瑞希をひとり置いて晴也のもとに向かうだろう。
秀一が求める相手は、権力を振りかざし、相手を意のままにしようとする瑞希などでは決してない。
侮蔑を含めた声音で、瑞希の耳元に冷たく言い放つ。壁際に抑えこまれ秀一に見下された瑞希は、どこまでも冷たく突き放す表情に、形の良い綺麗な唇をわななかせた。
「あなたに……僕を責める資格が? 秀一さんだってあの動画が出回ったとき、日高の名を利用したんじゃないんですか? どうして僕だけが責められるんですか。僕がΩに生まれたのも、運命の番があなただったことも! 僕が望んだわけじゃないのに。この世でたったひとつの運命の番を求めることがそんなにいけないことなんですか!」
Ωというだけで、αの家族にさえ見下される。養育放棄や体罰さえなかったが、いつも息が詰まる思いだった。
瑞希がどうやって生きてきたのか秀一は知らない。華やかさがある裏で、訴える瑞希の瞳が悲しみに潤んでいた。濁流の渦に呑みこまれそうなほど。
大きな黒い瞳を揺らし壁際に追いこまれてなお、瑞希は厳しい視線で秀一を上目に睨んできた。
「Ωがどうやって毎日を過ごすのか、あなたにわかりますか。何も知らないんでしょうね。知る必要もない。αだから……知ろうともしないんだ。だから簡単に運命を否定できる。運命と向き合おうとさえせず、そうやって簡単に、逃げ出せるんだ。あなたは卑怯だ」
Ωを見下していないようで、実のところはΩを低く見ている。αの能力に甘え、たいした努力もせずに安穏と過ごしている。
秀一の甘えを見透かした瑞希に厳しい口調で糾弾される。痛いところをつかれ、言葉を詰まらせた秀一に瑞希はなおも詰めよってきた。
「他人から否定され続けることがどれほど辛いか、あなたは知らないんですね。秀一さんも僕を否定する側だから。でも運命は無視できない。Ωを見下すαでも運命なら……僕を、ありのままに受け止めてくれるって。ずっとそう思っていたのに。どうして、あなたが僕の、運命なんですか」
よりにもよってなぜ。βに心を寄せるαなのか。瑞希がどんと秀一の胸を叩いた。瑞希だって、こんな展開を望んではいなかった。
「どうして、あなただったんですか……っ」
奇跡みたいに……運命の番と出会えたなら。互いに愛し愛され一生を寄り添えると。そんな幸福な夢を見ていたのに。秀一の胸に突きつけられた白い拳が、痛みと悲しみで震える。
瑞希を無意識に傷つけていた。冷たくあしらって、瑞希を突き放して。傷が浅いうちに、秀一に縋りつく手を振り払えばいいとそう思っていた。けれど最初から間違っていた。
瑞希と向き合あわず、秀一は優しいふりをしていただけだと気づかされた。
「……瑞希くん、俺は」
秀一が戸惑いの声を出したとき、瑞希の両手がふわりと秀一の頬に添えられる。正体のない真白い雲をつかむように。
息をのんだ秀一の唇に、瑞希の綺麗な唇がそっと触れた。運命と交わす、甘やかな口づけ。
「何を……っ!」
切羽詰まった声を荒げて瑞希を引き離す。瑞希の薄い肩を鷲掴みにし、加減も忘れ細い身体を壁際に押し飛ばした。
抑制剤を乱用しているとはいえ、こんな接触があったらラットを起こしてしまいそうだ。乱れた息を整えて瑞希と距離を置く。
口元を拭った秀一の耳に、突然小さい音が届いた。たぶん、軽い荷物か何かが落ちる音が。
人はいなかったはず、なのに。瑞希と触れ合った唇に手の甲を当て物音へ顔を向ける。音を追う先に見つけた、見慣れた姿を見た瞬間だ。
動揺した秀一の瞳が、ゆるゆると見開いた。瑞希と重なり合った唇が、信じられないと、力なく揺れ動く。
「晴也、さん……」
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