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第三章 訪問者③
夜。家に帰ると歩が一人だった。料理をする背中に忍び足で近付くと、歩は鋭い眼差しで俺を見た。
「てめェ、ふざけるなよ。朝のあれ、誤魔化すのに骨が折れたぞ」
「悪かったって。お前がすんごく可愛く見えちゃったからさ」
「ふん……」
そろりそろりと歩の腰に手を這わす。拒まれない。軽く抱き寄せてみても、怒られなかった。歩はただ黙々と調理を続ける。
「そういや、あいつは?」
「スケッチするとか言って出ていった。飯までには戻るっつってたが」
歩はちらりと時計を見た。
「准、てめェ呼んでこい」
「えぇ、俺がァ?」
「夜景を描きてぇとか言ってたが、この辺で夜景っつったらあそこしかねぇだろ。呼んできてやれ。飯の時間だって」
「はいはい、お前の頼みならしょーがねぇ」
いきなり、腕を掴まれ引っ張られた。口の端に、柔らかく湿った感触を覚えた。歩は軽く舌舐めずりをして、勝ち誇ったように笑った。
「朝の仕返しだ」
「おま……マジ、そーいうとこ……」
力いっぱい抱きしめて、熱烈なキスをお見舞いしてやりたくなったが、「ニヤついてんじゃねぇよ」とケツを叩かれ追い出された。
近所を流れる一級河川。そこに架かる古い橋。そのちょうど真ん中辺りに人影が見えた。
「おい、いつまで絵なんか描いてやがる。そろそろ飯だぞ」
「おう、准。わざわざすまんのう」
そう言いながら、遼二は俺に目もくれず、熱心に筆を走らせる。描いているのは、川下に見える都会の夜景だ。日本一の電波塔が青く輝き、首都高速がカーブを描き、高層ビルが色とりどりの光を放ち、それらの光が水面に散りばめられている。
「この暗い中よくやるねェ。何がそんなに楽しいんだか」
「准、これ見ぃ」
渡されたのはスケッチブックだ。薄暗い街灯の下でページを捲る。描かれていたのは異国の風景だった。異国の市場や礼拝堂、石造りの街並みや、雑多な繁華街。砂漠と大河と氷山と、ドブ川で沐浴する人々と、スラムで遊ぶ子供達と。そんな風景。
「なにお前、世界一周旅行でもしてきた?」
「そんなとこ」
「マジでか。すげぇ行動力だな」
「あっちこっち回ったで。時間はいくらでもあったけぇ」
「は~。ボンボンは羨ましいこった」
「旅はええぞぉ。百聞は一見に如かずじゃ」
ページを捲っていくと、だんだんと見慣れた風景が現れる。帰国してから描いたものだろう。都会の街並みや下町の風景、俺のアパートから見える景色や、近所の河原で描いたらしい風景画もある。
「やけん、今度はもっと身近なモンに目ェ向けて見ようと思うてな。近くにあるモンのことは、実はよう知らんのやないかと思うて」
「それで帰ってきたのか」
「ガイドブックで見たのとは全然違うようになっとる国もあってなぁ。知らん間に世界は変わっていって、そのうち全くの別モンになってまうかもしれんと思うたら、急に故郷が恋しゅうなった。オレは、オレの目で見た“今”を残しておきたい。やけん、絵を描く」
「お前、そんなおセンチな理由で絵ェ描いてたの」
「おセンチとは全然違うやん。いつか変わってもうたとしても、あの頃はああやったなと思い返せるようにしておきたいだけじゃ」
最新のページには、仕事中の歩の姿が描かれていた。夕焼けのグラウンドで、子供達と共にサッカーボールを追いかけている。
「……不法侵入?」
「なわけあるかい! フツーに許可もろうとるわ」
「んだよ、つまんねぇな」
「なんでや。そこは安心するところじゃろ」
少し前から、歩は学童保育施設で働いている。子供に宿題をさせたり、おやつを食べさせたり、遊ばせたりしているらしいと聞いてはいたが、まさか子供に交じって遊んでいるとは知らなかった。しかも結構全力で。
「こいつ、職場ではこんな感じなのな」
「なかなかの人気者らしいで。若い男の先生は珍しいけぇ」
「は? なにそれ、下ネタ?」
「何を訳の分からんことを言うとるんじゃ。若くて体力あるけん、遊び相手にちょうどええいうことやろ。今日はサッカーと鬼ごっこで遊んどった」
「なんだ、俺にもできそうな仕事だな。体力なら俺のがあるし」
「オマエは子供サンに怖がられるじゃろ。絶対向いとらん」
「んだおめェ、喧嘩売ってんのか」
遼二の描く歩は、生き生きとして力強かった。平面上にいるはずなのに、今にも動き出しそうな躍動感と生命力に溢れていた。俺に見せてくれるものとはまた違う、青春を思わせる新鮮な顔付きをしていた。
遼二の目に映る世界は、どれもこれも美しいらしい。何気ない日常の一瞬一瞬を切り取って、一枚の絵に仕上げてしまうのだから。こいつの審美眼や観察眼、豊かな感性といったものは、素直に羨ましいと思うし、少しは尊敬もしている。
「……こんな絵なら、いくらでも描けよ」
「おお、オマエにもこの良さが分かるか。これ、今日一番の傑作じゃけぇ」
「ま、せいぜいのんびりしていけや。絵でも何でも、気の済むまで描いてきゃいいよ。よくできたら俺にも見せろ」
「オマエは昔から変わらんのう」
「何言ってんだ。俺も色々変わったわ。童貞も捨てたしな」
「なに? そりゃほんまの話か!」
「ったりめェだろ。俺らいくつだと思ってんだよ」
「いつ? どこで? 誰と? どんな感じやった!? まさか風俗?!」
「んなことペラペラ喋るわけねェだろ。プライベートな話だぞ。あと風俗ではない」
「オマエだって、オレに根掘り葉掘り聞いてきたやないか。おっぱいがどうの、アソコがどうのって。仕舞いにゃオンナの匂いを嗅がせろ言うて、あンときゃほとほと参ったで」
「そりゃおめェが仲間内で最初に童貞捨てたからだろ。誰だって気になるわ。高校生の性欲舐めんな」
「舐めちゃおらんが、オレだけ喋らされてオマエだけだんまりは不公平じゃろうが。恥ずかしがらんで、話さんかい」
「ぜってぇいやだ」
「こすいでオマエ~」
「こすくて結構で~す」
危うく橋の上で鬼ごっこが始まるところだった。ふと振り返れば、エプロンを着けたままの歩が、大層不機嫌な面持ちで仁王立ちしている。
「おい、バカ二人組。今すぐ帰らねぇと飯抜きだぞ」
俺の帰りがあまりに遅いので、歩が痺れを切らして迎えに来た。歩に引きずられるようにして、俺と遼二はようやく家路についた。
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