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第七章 隣の学生さん①

 進学を機に上京し、念願の一人暮らしを始めた。生憎資金面に余裕があるわけではなく、築ウン十年のボロアパートしか借りられなかった。部屋は狭いし壁は薄いし、風が吹けば窓のサッシがガタガタ言うが、ただ一点、予期せぬ幸運があった。  お隣さんがべらぼうに美人なのだ。ただその一点において、この部屋は住むに値する。この部屋に決めた過去の自分に、僕は毎日感謝している。  美人といっても、女性ではない。僕よりも少し年上の、若い男の人だ。これまでの人生、まだそれほど長く生きたわけではないが、恋に落ちた経験は数あれど、相手が男だったことは一度もない。いつだって、僕の恋の相手は女の子だった。  男相手に美人だの綺麗だのと感じるなんて、僕はどうかしてしまったのだろうかと、最初のうちは戸惑った。しかし、くだらないこだわりは早々に捨てた。美しいものを美しいと感じて、何がおかしいというのだろう。最近はもう開き直って、お隣さんと良い関係を築くことに力を注いでいる。   「こんにちは」    駐輪場で姿を見かけたので、当たり障りなく挨拶をする。お隣さんは流し目に僕を見た。   「猫、好きなんですか」    僕が言うと、お隣さんは少し照れたような顔をした。撫でているのは、この辺りを縄張りにしているらしい三毛猫だ。近所のおじいさんが餌をやっているのを見たことがある。   「僕も猫好きです。実家で二匹、白いのとトラ柄の、飼ってました」 「おれも……子供の頃、野良猫に餌付けしてたことがある」 「何猫ですか」 「黒」 「黒猫かぁ。なんか、お兄さんのイメージぴったりですね」 「……どういう意味だ?」 「クールで神秘的なところが、何というか」 「……」    うっかり要らぬことを口走ったようだ。お隣さんは訝るような目で僕を見る。   「まぁ、そいつはそのうちいなくなって、それから動物とは縁のない生活を送ってたんだが」    気持ちよさそうに撫でられていた三毛猫は、それだけでは物足りなくなったのか、お隣さんの膝の上によじ登る。お隣さんは嬉しそうに顔を綻ばせた。   「ふふ、こいつ、すごく懐くな。一応野良なんだろ? いいのかよ、こんなに甘えん坊で」    ああ、この人、こんな風に笑うんだ。切れ長の涼しげな目元がほっと緩んで、艶のある唇が綺麗な三日月を描く。左目に怪我があるらしく、眼帯を着けている姿をよく目にするが、今日はそれもなく、素顔の笑顔を知ることができた。   「結構いい餌もらってるのか? 毛艶がいいし、もっちりしてるな。なぁ、猫?」    三毛猫を抱き上げて、親しげに話しかけている。この人、クールビューティーな見た目のくせに、結構お茶目なところがあるのだろうか。意外なギャップに、僕はますます彼の虜になってしまう。   「あら、ミケちゃん」    犬を散歩する老婦人が通りかかった。白い大きな犬だった。驚いて逃げるかと思いきや、猫は犬に甘えるようにすり寄った。犬も猫の匂いを嗅いだり、舐めて毛繕いをしてやったりする。この二匹は元々仲良し同士らしい。  犬はお隣さんとも顔見知りのようだった。お隣さんが手を差し出すと、くんくん嗅いで匂いを確かめ、お手をする。利口な犬だ。お隣さんがもふもふの体を撫で回して褒めてやると、犬は尻尾をぶんぶん振って飛び掛かり、もっと撫でてもらおうとせがむ。   「あらあら、よかったわねぇ、ユキちゃん。いっぱい遊んでもらって」    老婦人が和やかに微笑み、お隣さんもまた、口数は少ないながらも嬉しそうに顔を綻ばせた。元気よく抱きついてくる犬を抱き止めて、犬が満足するまで撫でてあげる。  動物に好かれる人に悪い人はいない。犬も猫も、人の本性を見抜くことに長けている。したがって、このお隣さんも、前世はきっと聖人か何かだったに違いない。だって、よその犬や野良猫に、これだけ懐かれているのだから。  犬が散歩に戻り、気紛れな猫もどこかへ消えてしまった。お隣さんはほんのちょっと寂しそうに肩を落とす。  これって、もしかしなくてもいいチャンスなんじゃないだろうか。暮れなずむ黄昏の街に、僕とお隣さんの二人だけ。邪魔な――と言っては悪いが――猫も犬もいない。今がまさに、またとない好機というやつなんじゃないだろうか。   「あっ、あのっ、よかったら今度――」 「おいおいおい、こんなとこでたむろってんじゃねぇよ。邪魔だぜ。どいたどいた」    背後に脳天気な男の声が響いた。僕は思わずぞっとして立ち竦む。男は僕の肩に馴れ馴れしく腕を回し、にっこりとガラの悪い笑顔を浮かべた。   「なんかごめんねぇ~。うちのが世話になったみたいで」 「いえ、別に……ちょっとお話させてもらってただけで……」 「あっ、そ~お? 俺はまた、こいつが空気読めない発言でもしたんじゃないかと思ってさぁ」    男は、表面上は笑ってはいるが、腹の底はメラメラと殺気立っている。僕は犬でも猫でもないが、その程度のことは感じ取れる。要するに、「俺の獲物に手を出すな」ということだろう。   「空気読めねぇのはてめェの方だろ。なに因縁付けてやがる」    お隣さんは男の脛を蹴飛ばした。鋭い一撃に、男は顔を顰める。間抜けな面を晒して、いい気味だ。   「おまッ、結局すぐ手ェ出んのな。いや足か。今時暴力ヒロインは流行らねぇぞ」 「暴力ヒロインって何だ」 「お隣さんよォ、あんたも気を付けた方がいいぜ。こいつ、こんな顔してすげぇ気が短けェから。ぼんやりしてっと噛み付かれるぞ」 「誰が短気だ。てめェがだらしねぇのが悪いんだろ」 「あっほら見て! 今まさにほら! 首絞まってるから!」 「これは暴力じゃねぇ。躾だ」 「はん、俺は犬ですかっての。わんわん」 「さっきのユキちゃんの方が余程利口そうだがな」 「ユキちゃん?! 誰よその女!」 「犬だっつってんだろ」    夫婦喧嘩は犬も喰わないとはよく言ったものだ。僕はただ愛想笑いを浮かべることしかできない。しかも、この二人のこれは、喧嘩にすらなっていない。ただのじゃれ合いといった雰囲気だ。いつもこんな風にスキンシップを取っているのだろう。  つまるところ、僕のこの恋は成就する見込みがほとんどない。何しろ、お隣さんには長年連れ添った――ように見える。実際どうなのかは知らないが、かなり気心知れた間柄に見える――パートナーがいるのだから。僕の入り込む余地なんて、初めから存在しないのだ。  長年連れ添った間柄に見えるけれども、夜の方はかなりお盛んで、非常に熱いやり取りを夜ごと繰り広げている。ボロアパートゆえに壁が薄く、聞きたくもない声や音が筒抜けなのだ。全く、好き放題にやりやがって。今度苦情の一つでも入れさせてもらおう。

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