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第八章 君のいる八月①
夏ってのは、どうしてこんなに暑いんだ。燃え盛る太陽に、照り付ける日差し、熱した鉄板みたいなアスファルト。鬱陶しく纏わり付く蝉時雨。そして何より、この光だ。目が灼ける。視界が眩む。何もまともに見られやしない。
「見ろ。もう少しだ」
歩の声に、俺はぐったりしながら顔を上げた。揺らめく陽炎の向こうに、懐かしい町が見えていた。
「やっとか……」
「ああ。思ったより遠かったな」
「いや、マジでもう……帰りてぇわ」
「バカ言うな。今着いたばっかりだろ」
「こんなことなら、ケチケチしねぇでレンタカー使えばよかったぜ」
「ケチケチしてたのはてめェだろうが」
八月の休日を使って、里帰りをしてみることにした。とはいえ、迎えてくれる親類縁者がいるわけでもない。ただ少し立ち寄ってみるだけだ。
朝早くに家を出て、電車に揺られること二時間半。四回の乗り継ぎを経て、ようやく辿り着いた最寄り駅から歩くこと一時間。途中、店も人家もない山道を歩かされてどうなることかと思ったが、どうにか辿り着くことができた。
「でももぉムリぃ。暑ちィ。死ぬぅ。喉渇いたぁ。干からびるよぉ」
「情けねェ声を出すな。てめェ、体力には自信あるんじゃなかったのか」
「しょーがねぇだろ。想像以上に過酷な道のりだったんだもんよォ。もう足上がんねぇよ」
「……まァ、山越えしないルートもあったらしいんだがな」
「マジかよ。早く言ってくんない?」
「距離的にはこっちの方が近道だったんだ」
高校卒業以来、初めて訪れるふるさとは、記憶の中にあるものよりもずっとこじんまりしていて、閑散としていて、鄙びていた。ただ、記憶の中にあるものよりもずっと美しく、色鮮やかで、光に満ち溢れていた。
「とりあえず、休憩できる場所を探すか」
「そりゃお前、休憩っつったらお前それは」
「生憎、ここにホテルはねぇぞ」
「あらヤダ、歩くんったら、やッらしー。誰がホテルなんて言いましたぁ? こんな明るいうちから、ホテルでナニするつもりですかぁ? まー俺としちゃあ、明るいうちから組んず解れつ盛り上がんのもやぶさかではないというか――ぁイタタタ」
ふざけて揶揄う俺の耳を、歩は容赦なく抓って引っ張った。
「ちょっ、待って、耳取れる! 千切れちゃう!」
「てめェがふざけたことばっかり抜かしやがるからだろうが。大体、ここで休憩っつったら、あそこしかねぇだろ」
村に唯一の駄菓子屋は、昔と変わらずそこにあった。駄菓子屋駄菓子屋と呼んではいたが、実際には酒や米なども取り扱っている、昔ながらの個人商店である。
記憶の中にあるものよりも、建物はずいぶん古ぼけていた。ただ、店内の雰囲気は昔のままだ。暗くて狭くて雑然としていて、古びた棚に陳列されたお菓子やおもちゃも、あの頃とほとんど変わらない。
懐かしのガムやグミ、ゼリーにラムネ。飴だの餅だの、当たりが出たらもう一個でお馴染みのスナック菓子も売っている。懐かしさに目移りするけれど、今一番欲しいのは、ガラスケースでキンキンに冷やされたラムネと、冷凍庫で霜に埋もれているアイスキャンディだ。
「ッは~~! 生き返る!」
「大袈裟だな」
店の外にある赤いベンチで休憩した。軒先に吊るされた金魚柄の風鈴も昔のままだ。夏の熱い風に揺れる風鈴の涼しい音色を聞きながら、瓶入りラムネの栓を抜き、浴びるようにガブ飲みした。
青く澄んだビー玉が、ガラス瓶の中で弾ける。空の色を写し取ったみたいに眩しい。ビー玉を透かして、青い影が地面に落ちる。
「早く食え。溶ける」
「お、サンキュ」
歩がダブルソーダの片割れを渡してくれた。一つのアイスに二本の棒が付いており、半分に割って二人で食べることができるという、金欠の子供に優しいアイスキャンディだ。
「こっちのがでかいけどいいの」
均等に分割するのは難しい。歩の手にあるアイスは本来あるべきサイズの半分ほどしかなく、その分だけ俺のアイスの方が大きい。昔は、どちらが大きい方を食べるかで喧嘩したり、ジャンケンで決めたりしたものだ。
「別にいい」
「へぇ? 優しいじゃん」
「こうすりゃ平等だ」
歩は俺の手を取ると、俺のアイスに齧り付いた。白い歯が青いソーダアイスに食い込んで、シャリシャリと涼しい音を立てる。余計に多かった分だけをきっちり齧り取って、歩は満足そうに唇を舐めた。
「これでちょうど半分だ。だろ?」
「まぁ……うん……」
「何だよ。取り過ぎたか?」
「ううん、全然……ありがとね?」
「何がだ」
いきなりあざといことをするものだから驚いた。まさか誘っているんじゃないだろうな。ただでさえ、小さい口でアイスキャンディを舐める姿は、股間に来るものがあるというのに。
「おい」
「な、なに!? 別にお前のことなんか考えてませんけど!?」
「垂れてる」
「は? うわマジかよ」
ほんの一瞬目を離した隙に、アイスがでろでろに溶けていた。カチンコチンに冷えていたはずなのに、この日差しにやられたらしい。溶けたアイスが手首を伝って肘まで届き、ぼたぼた垂れる。
「あーあー、もったいねぇ」
懐かしのソーダアイスが無残な姿になってしまった。垂れた分を取り戻そうと、俺は必死に手首を舐めるが、その間にもアイスは溶ける。歩は含み笑いを浮かべて言った。
「舐めてやろうか」
「はぁあ~? お前さぁ、それはさすがに狙いすぎだろ。俺、そーいうの本気にしちゃうよ? 純粋な存在だから」
「何が純粋な存在だよ。ほら、早くしねぇと全部無駄になっちまうぞ」
「分かってるっての!」
歩に急かされながら、俺はアイスを頬張った。
駄菓子屋を後にして、一通り村を見て回った。虫捕りをした林や、魚釣りをした小川、猫と遊んだ稲荷神社。秘密基地を作った野原や、秘密の話を打ち明け合った川の畔。どこもかしこも、かけがえのない思い出が詰まっている。
山際の陰にひっそりと隠れるように、一輪の百合が咲いていた。こんなところに百合なんて咲いていただろうか。純白の可憐な花びらが目に眩しく、優しく甘い匂いが香った。
「何してんの」
「昔よくやっただろ」
歩がシャボン玉を吹いた。さっきの駄菓子屋で買ったらしい。
チープなプラスチックの容器に入ったシャボン液にストローを浸してひと吹きすれば、シャボン玉が大きく丸く膨れ上がって、ふわりと空に舞い上がる。繊細な泡の表面に光が幾重にも折り重なって、複雑な模様を描いている。
晴れ渡る空に、大小様々のシャボン玉が飛んでいる。そのさらに遥か上空に、真っ白な飛行機雲が浮かんでいた。青空を切り裂くように真っ直ぐに、たった今飛行機が飛んでできたばかりの飛行機雲が、まだ消えずに残っている。
「確かに、昔はよく遊んだな」
「懐かしいだろ」
「竹とんぼとか水風船とか、金のかからねぇ遊びばっかしてたっけ」
「ああいうのが一番楽しかったんだ」
一応、歩の実家を見に行った。住む者を失くした家は綺麗さっぱり取り壊されて、何もない更地と化していた。
ついでに、俺の育った山奥の施設にも足を延ばした。元々古い洋館だったが、いまや管理する者もいないらしい。廃墟同然に荒れ果てていた。崩れかけの門扉を越えて不法侵入する気も起きない。
「ほとんど幽霊屋敷だな」
「おまっ、ひとン家に向かって何つー暴言を」
「気に障ったか」
「別にいいけどよ。俺も似たようなこと思ったし」
「……まァ、あながち廃墟ってわけでもなさそうだがな。よく見りゃ、新しい住人もいるようだし」
「ちょ、なに急に、怖い話? 夏だからって怪談とかやめてくんない? いや、俺は幽霊とか全然信じてないけどね。非科学的すぎてありえねぇっつーか」
「違げぇよ。いちいちうるせぇやつだな。ほら、あそこ」
歩は二階の割れた窓ガラスを指差した。本当に幽霊でも映っているのかと身構えたが、何ということはない。野生のリスが住み着いているようだった。しかも一匹ではない。大きいのと、小さいのが何匹か。家族だろうか。
「リスの家とは、なかなかメルヘンチックじゃねぇか」
窓は割れているし、扉は閉ざされているし、壁には蔦が絡まっているが、荒れた庭には色とりどりの野花が咲き乱れ、二階にはリスの家族が住み、屋根では小鳥が囀っている。空き家も捨てたものではない。ともすれば、俺がいた頃より賑やかだ。
最後に、歩の希望で墓参りをした。俺達が生まれるよりもずっとずっと昔から村にある、古い墓地だ。肝試しにはもってこいの場所である。夜になるとかなりの迫力だ。ちなみにこれは実体験である。
「いずれは墓仕舞いも考えねぇといけねぇが、今はまだな……」
歩の家族が眠る墓は、比較的新しい。桶に汲んだ水で墓石を磨き、蔓延る雑草を引っこ抜いて、歩は熱心に墓掃除をした。家族が眠っているのだから、当たり前のことだろう。両親はどうとしても、歳の離れた姉のことは心から愛していたようだから。頭では分かっていても、俺の胸はざわついた。
墓場の周縁に、彼岸花が咲いていた。燃え滾る炎のような、あるいは滴る血潮のような、鮮やかな真紅の花だ。時期としては少し早い気もする。墓地の周辺に狂い咲いていた。
その光景を見ていたら、なぜだか急に不安になり、俺は急いで墓場に引き返した。歩は、ちょうど空になった桶を片付けるところで、帰り支度を始めていた。
「どうした。顔色悪りぃぞ。本当に幽霊でも見たか」
「……まさかな。幽霊なんかいるわけねぇっての」
「でもお前、前にここで肝試しした時……」
「んな話今更蒸し返すなよ!? つか別に漏らしてねぇし!?」
「やっぱり漏らしてるじゃねぇか」
「いや、だから違くて、ていうか、今その話はどうでもよくて、ただその、何つーか、彼岸花が咲いてたから、それで……」
「この時期にか。珍しいな」
「……お墓に供えてく?」
「やめとけ。毒がある」
「マジかよ!? あっぶねぇ~~」
「触るだけなら大丈夫らしいが、一応な」
その時だ。目の前を黒猫が横切った。墓場の入口にある、お地蔵様を祀る祠の前をさっと通り過ぎ、立ち止まってこちらを振り返った。
「猫だ」
「ああ」
「懐かしいな」
月夜を思わせる毛艶と満月にも似た瞳が印象的な、美しい黒猫だ。しなやかな尻尾が風に揺れる。
「……なんか、あいつに似てない?」
「今生きてたら化け猫だろ」
「あいつの子供とか孫とか、ひ孫とかかも」
「だったらいいけどな」
「俺らのこと、分かんのかな」
こっちにおいで、と手を伸ばそうとしたら、逃げられた。黒猫は素早く草むらの中に身を隠し、そのままどこかへ消えてしまった。一瞬の出来事だった。
「あーあ、残念。逃げちまった」
「……そういや、昔、この場所で……」
「猫がいなくなって、探しに来たんだよな。雨の降る中、わざわざさ。お前が、猫見つけるまで絶対帰らねぇっていつまでも粘るもんだから、あン時ゃ俺も参ったぜ」
「ああ、それでお前……」
不意に歩の手が触れた。指を絡めて、引き寄せられて、唇に軽くキスされた。呆気に取られる俺を見て、歩は小悪魔めいた笑みを浮かべた。
「あの時も、ここでこうしてくれただろ」
「あ、あの時は俺から……」
「そうだったな。ガキの頃の方が大胆だったもんな、お前は」
「い、今だってなぁ、やろうと思えば……」
「分かってる。ほら、もう行くぞ。用は済んだんだ」
歩は俺の手を引いた。用は済んだのに、手は繋いだままだ。互いの指が蔦のように絡み合う。じっとりと汗ばんでいた。
帰り道で、もう一度駄菓子屋の前を通った。俺達が最初に立ち寄った時は閑古鳥が鳴いていたが、さすがに夏休みというだけあって、今は小学生で賑わっていた。少年が二人、あの日の俺達と同じように、ダブルソーダの取り分で揉めている。
「前回オレが譲ったんだから、今回はオマエが譲れよ」
「でもその前はオレが譲ったし、公平にジャンケンで決めようぜ」
「負けても文句なしだぞ」
「オマエこそ。三回勝負な」
揉めている間にも、アイスは刻一刻と溶けていく。愚かな争いにも思えるが、彼らにとっては一回一回が真剣勝負だ。どちらが勝っても負けても、アイスを溶かしてしまっても、たとえ全てがおじゃんになっても、そんな取るに足らない経験でさえ、きっといつかはかけがえのない大切な思い出に変わるのだ。
帰り際、橋の上でふと振り返った。今まで歩いてきた道が見えた。ただ広いだけの空間に、かつて歩いてきた道が繋がっていた。
遥か遠い丘の上に、黒猫がぽつんと佇んでいた。俺達を見送ってくれているように感じた。それと同時に、もう二度とこの地を訪れることはないだろうと、俺は漠然とそんなことを思った。この橋を渡ってしばらく行くと国道に出る。
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