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第八章 君のいる八月②
再び鈍行列車に揺られること一時間。終点で乗り換え、私鉄を乗り継ぎ、ほぼ貸切状態の路線バスに揺られること三十分。ようやく目的地が見えてきた。
「起きろよ。次のバス停だろ?」
歩は俺の肩にもたれて眠っていた。その寝顔をもう少し見ていたいのを我慢して、俺は歩を揺り起こす。
降車ボタンを押し、バスを降りると、海だった。空っぽのバスが、まるで大きな生き物のように唸り声を上げ、その巨体を揺らしてゆっくりと走り去る。後に残るのは、俺と歩の二人きりだ。
砂浜は、堤防を越えてすぐだった。海と砂浜の他には何もない、植物なんかはちらほら生えているが、のんべんだらりとした海だった。
砂浜はそれほど広くはない。リゾート地のような白く美しい砂でもない。ただ、海は広かった。広大だ。紺碧の海が果てしなく広がっている。
青い空と、青い海。沖合で白い波が立ち、太陽を反射してキラキラ光っている。こんなにも眩しいものか。真夏の海というものは。こんなにも美しかったのか。
歩は荷物を置き、靴を脱いで裸足になり、ズボンの裾を捲って海に飛び込んだ。透き通る波が白い足首を優しく撫でる。
「冷たくて気持ちいいぞ」
歩が振り返って笑った。夏の景色がこいつにこんなに似合うなんて、俺は思っていなかった。昔、あの夏の日、もしも本当にこの地を訪れることができていたら、今見ているのと同じ風景を、あの頃の俺もきっと目にしていたことだろう。
俺も歩の真似をして海に飛び込んだ。砂浜を駆け、水飛沫を上げる。ズボンの裾が濡れるのなんか気にならない。優しい波が足を濡らし、砂浜を濡らし、やがて海へと返っていく。そしてまた波が寄せて、返して、その繰り返しだ。
「水着とか浮き輪とか持ってくればよかったな」
「泳ぎたかったか」
「海っつったら泳ぐモンだしな」
「……おれは、お前と海が見られれば、それで……」
「……」
「何でもねぇ」
波の音に掻き消されそうになった歩の呟き声を、俺の聡い耳が聞き漏らすはずはない。ずいぶんしおらしいことを言うようになったものだ。
「何? なんか言った?」
「だから、何でもねぇって」
「俺と海が見られればそれでいいんだ? ふーん。なーるほーどねぇ」
「てめ、聞こえてんじゃねぇか。わざとらしい演技をするな」
「お前って、ホント俺のこと好きだよな」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、俺と海が見られればそれだけで満足なんだろ? かわいいやつめ」
「……んなこと言ってねぇ」
「おい、さらっと前言撤回すんな! 俺と一緒にいられるだけで幸せなんだろ? 素直になれよ」
「それはマジで言ってねぇ。都合のいい解釈をしてんじゃねぇぞ」
いきなり素直に甘えられて嬉しかったのに、ちょっと揶揄いたくなってしまった。難聴系ラノベ主人公を装って歩に絡み、物理的に纏わり付いてやいのやいのと揶揄った。それがよくなかった。
突然、大波に襲われた。崩れやすい砂の足場で踏ん張りが利かず、当然のごとく足を取られ、波の上に尻餅をついた。もちろん、二人諸共だ。ズボンの裾を捲る程度の対処は完全に無意味と化す。全身見事にずぶ濡れだ。
「……おい」
歩の黒髪から水が滴る。水も滴るいい男、なんて悠長なことを言っている場合ではない。濡れた黒髪に覗く歩の隻眼が血走っている。
「どうしてくれんだ。こんなに濡れちまって。替えの服はねぇんだぞ」
「や、やだなぁ、そんなに怒んないで……」
「怒っちゃいねぇよ。聞いてるだけだ」
「いや、ほら、でもさ、あんなんちょっとしたじゃれ合いじゃん? 濡れちゃったのは事故みたいなモンだし、ていうか悪いのは全部あの波だし……?」
「ちょっとしたじゃれ合いねェ……」
ざぶんと波を立てて歩は立ち上がり、俺の胸倉を掴んだ。このまま沈められる運命か、と思ったが、意外にも、俺の体を受け止めたのは熱い砂浜だった。
「なに……?」
そして、不意に目元に影が落ちる。歩が俺の上に跨っていた。紺碧の空が眩しく、歩の表情は逆光で見えない。口元だけが、僅かに微笑んでいるように感じた。
顔がゆっくりと近付いてくる。うんと近付けば、微かに表情は分かる気がする。けれど、この距離ではもう逃げ出すことはできない。濡れた唇が重なった。海の味がした。
「ん……んん……っ!?」
まさか舌を入れてくるとは思わない。こんな場所で、太陽の下で、波の寄せる砂浜で、しかもカンカン照りの真っ昼間に? こんなことをしちゃっていいのかよ。
「ちょっ……!」
しかも、何やら擦り付けられているような気がする。寄せる波のせいか、浮力のせいか知らないが、歩が腰を振って尻を押し付けてきている。これはもう、誘っていると思っていいのではないか? 青姦OKってことだよね?
「おい。変なとこ触んな」
「なんでぇ……?」
辛抱堪らず、シャツの裾から手を忍び込ませようとしたら、唇が離れてしまった。歩はもう怒ってはいないようで、気分良さげに俺を見下ろした。
「ちょっとしたじゃれ合いだろ?」
「フツーにギンギンなんですけど……」
「青姦は趣味じゃねぇ。真っ昼間だぞ」
「お前のせいなんですけど!」
「知らねぇな。海水で冷やしとけ」
自分から仕掛けてきたくせに、歩はつれない態度で浜に上がってしまった。濡れたシャツを脱いで絞る。乾いた砂に水が染み込む。
俺はといえば、いまだ海に浸かったままだ。波が寄せて引いていくのを肌で感じる。中途半端に火をつけられて火照った体は、そう簡単には冷めそうにない。
「なァ~、いつまでこうしてりゃいいわけぇ?」
「さァな。服が乾くまでだ」
濡れたシャツとズボンを脱ぎ、俺は半裸で砂浜に寝そべっていた。いくら過疎化が著しいド田舎の海とはいえ、パンイチはまずい。歩がバスタオルを掛けてくれたが、そんな恰好で海辺をうろつくわけにもいかず、俺は砂の上から動けずにいる。灼けた砂浜は熱い。
歩も上裸ではあるが、下着までは濡れなかったらしく、ズボンは履いたまま日に当たって乾かしている。光の弾ける炎天下で、生白い肌は目の毒だ。歩がそんなあられもない姿で波打ち際を歩くから、俺は余計に砂の上から動けない。
「見ろ、准。これは大物だぞ」
「あー、よかったね~」
「てめェ、見てねぇだろ」
「いや見えねぇんだよ。んなちっさいモン、こっからじゃ砂粒ぐらいにしか見えねぇの!」
「何言ってんだ。大物だぞ」
「大物だろうが貝は貝だろ!」
砂に灼かれる俺を尻目に、歩は砂浜をあちこち歩き回って、貝殻やビーチグラスを拾っていた。意外にもロマンチックな趣味がある。
波打ち際に続く歩の足跡を、波が寄せて攫っていく。そしてまた、真っ新に生まれ変わった砂の上に、歩の足跡が点々と続いていく。何度足跡が消えても、新しい足跡が繋がっていく。
そんな光景をずっと見ていると、いよいよ目がおかしくなりそうだ。あまりに光が強すぎる。海の青さにやられてしまう。憧れに胸が焦がされる。
「おい」
ふと目を開けると、歩が俺の顔を覗き込んでいた。今、一瞬眠っていたのだろうか。
「熱中症じゃねぇだろうな」
「たぶん……?」
「たぶんって何だよ。もし体調が悪いなら」
「大丈夫だって。ちゃんと水も飲んでるし」
熱中症ではないと思うが、この暑さはどうにもいけない。うんざりするような暑さに加え、鋭く煌めく陽の光、寄せては返す波の音。地の底から這い上がる蝉の声に、滝のように噴き出す汗の塩辛さ。これら全てが、正常な思考を奪っていく。
「見ろ。結構拾えた」
歩が両手を広げて俺に見せる。砂浜を歩き回って集めたらしい、貝殻やビーチグラスや陶器の破片や、そんなものが両手いっぱいに詰まっていた。
「お前が厳選してくれ」
「えぇ……俺は別に何でも……」
「全部は持って帰れねぇだろ。良さそうなやつだけ持ち帰る」
「あっ、俺の意見は聞いてない感じ?」
改めて見てみると、なかなかの収穫だ。大きな巻貝、小さな巻貝、色鮮やかな二枚貝に、つるんと滑らかなタカラガイ。大きさも色も形も模様も様々だ。一口に貝といっても、それぞれ個性があるらしい。
「このピンクの貝、いいんじゃない? かわいくて」
「ああ。おれもこれは気に入ってる」
「お前の乳首とおんなじ色してら」
だって、上半身が裸だから、どうしても目に入ってしまうのだ。つるんとした胸に、ちょこんと飾られた桜色の突起。こちらに身を乗り出していた歩の剥き出しの胸元に、俺は悪戯な右手を伸ばした。尖りをつんと摘まんで、そっと撫でて、でもそれだけだ。
「……いつまでも手癖が悪りィんだよ、てめェは」
「ピンクの乳首丸出しにしてる方が悪りィんですー」
「てめェこそケツ丸出しのくせに何言ってる」
「いやケツは出してねぇからな!? ギリギリ露出狂ではねぇから! ……たぶん」
厳選作業は難航した。一応、なるべく珍しそうなものを持ち帰り用として選り分けてみたが、いざとなるとどれも美しく価値あるものに思えて、結局大半は持ち帰りとなった。
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