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第八章 君のいる八月④

 その後も祭りを満喫した。割高の飴だの氷だのも食べたし、粉物やおつまみ系も一通り堪能した。金魚すくいは一匹も掬えず、ヨーヨー釣りは秒で糸が切れ、スーパーボールすくいは無双した。透明の巾着袋に、色とりどりのスーパーボールが浮かんでいる。  祭りはまだ続いている。むしろこれからが本番だろうか。祭囃子は一層盛り上がっている。その喧騒から一歩離れて、俺達は砂浜に来ていた。街灯がぽつんと立っているだけの、寂しい夜の海だ。  ろうそくの火が潮風に揺らめく。その幽玄な炎にそっと先端を近付けると、花火が勢いよく火を噴いた。   「おわっ、けむっ」 「風下にいるからだ。こっち来い」 「いや~、花火なんてマジで超絶久しぶりだわ」    歩がくじ引きで当てた花火だ。早速遊ぶことにした。花火可の砂浜があってラッキーだった。  シューッと光が噴き出して、パチパチパチッと火花が散って、はらはらと火の粉が舞う。赤や黄色、緑に青、紫、桃色、橙色。夜の海がたくさんの光で溢れている。白い煙が立ち込めて、鮮やかな光に彩られ、闇を明るく照らしている。  光が消えないように、光を絶やさぬように、次から次へと花火を燃やした。滝のように流れる光が美しい。潮風にたなびく煙が目に染みて、涙が出る。鼻につんと来る独特の匂いが癖になる。光の海に溺れそうだ。   「おい、んないっぺんに火ィつけんな。すぐ終わっちまうだろ」 「だって、いっぱいあった方が綺麗だろ。迫力もすげぇし」    弾ける光に包まれて、歩が笑う。夜だというのに眩しくて直視できないなんて、おかしなこともあるものだ。  ラストを飾るのは線香花火だ。「どっちが持ち手だっけ?」「ひらひらの方だ」などと言いながら、ろうそくにそっと近付ける。  ちりちりと先端が焦げ、火がついた。ぷっくりと丸い火の玉が産声を上げるが、二つ同時に火をつけたせいで火の玉がくっついてしまった。「どうすんだよこれ」「お前が近付け過ぎるせいだろ」なんて言い合いながら、それぞれの花火を引っ張って、くっついて一つになりかけていた火の玉を引き剥がす。  涙のような形に膨らんだ火の玉は、今にも落ちてしまいそうにぷるぷる震えながら、それでも少しずつ大きく成長していく。やがて、パチッ、パチッ、と火花を散らす。始めはゆっくり、だんだん激しく火花が散る。花火の息吹が指先から伝わる。   「やっぱりこれが醍醐味だな」    夏のように弾ける火花を見つめて、歩が呟いた。   「花火好きなんだ?」 「人並みにはな。特に線香花火がいい。見ていて落ち着く」    分かる気がする。勢いよく火を噴くタイプの手持ち花火も楽しいが、線香花火のしみじみとした趣深さに敵うものはない。色とりどりの眩い光に包まれるのもいいけれど、線香花火の繊細で幽玄な光に照らされた姿はより一層情緒的で、心に沁みるものがある。  最盛期を過ぎて、火花が徐々に静まり始める。一本、また一本と筋を描くように、か細い火花が儚く垂れる。暗闇の中、散り際の花びらのような火花は心許ない。やがて火花すら落ちなくなって、火の玉が小さく萎んで、ふっと光を失う。  線香花火の火が消えて、俺は一呼吸置いて息を吐いた。花火の後というのは、どうも切ない気持ちになってしまっていけない。夏の終わりを予感するからだろうか。焦げた火薬のにおいだけが、いつまでも残り続ける。   「……」 「……なぁ」    歩も俺と同じ思いだったのだろうか。粛々と後片付けをしていたが、不意に空を見上げて言った。   「何だよ」 「聞こえるだろ。ドーンドーンって」 「……銃声?」 「だとしたら、もたもたしている暇はねぇな」    歩は、音の正体を探って広い夜空を見回す。やがて、遠い音の出所を突き止めたらしかった。   「どこ行くんだよ」 「いいからついてこい」    緩やかな湾を描く砂浜だ。その一番端まで歩いていくと、防波堤がある。海のど真ん中にまで突き出した、長い長い防波堤だ。一旦砂浜から上がり、海上に浮かぶ防波堤の先端まで出てみると、俺にも音の正体が分かった。   「花火だ」    花火は花火でも、打上花火だ。岬の向こうの、ぽっかりと空いた広い夜空に、大輪の華が咲き誇る。   「すげぇ。よく見つけたな」 「まぁな」 「さっきの祭りの続きかなんか?」 「別のだろ。向こうの海でも祭りをやってるんだ」    防波堤に腰掛けて、俺と歩は同じ角度で空を見上げた。真っ黒なキャンバスに絵の具をぶち撒けるように、色とりどりの光の粒が夜空を彩る。ぱっと光の華が咲き、火花が散って夜空を滑り、闇に溶けて消えていく。一拍置いて、大気を揺るがす振動が伝わってくる。   「まさかこんなとこで花火が見られるなんて、ツイてるな」 「もっと近くで見られたらもっとよかったけどな」 「ここからでも十分だろ。会場はすげぇ混んでるだろうし」 「……ここなら、誰にも邪魔されねぇしな」    ひんやりとしたコンクリートの上で、歩の指先が触れた。手が重なって、指が絡む。俺は歩の顔を見た。歩は夜空を真っ直ぐ見上げたままだ。黒い瞳に鮮やかな光を映している。   「なぁ、准。おれはどこにも行かねぇよ」 「……」 「どこにいたって、お前の隣がおれの居場所だ」 「何だよ、急に……」 「別に。思ったことを言っただけだ」 「……」    夜の海に二人きり。空には花火。暗闇に煌めく火花が眩しくて、深く響く爆発音が胸を焦がすので、思わずキスしようとしたら拒まれた。   「何しやがんだ」 「いやそれこっちの台詞なんだけど!? 今のは完全誘ってただろ」 「誘ってない。いいか、よく聞け。おれは、ずっとてめェのそばに居てやるって言ってんだ」 「……」 「だからシケた面すんな」 「……してねぇよ」 「そうかよ」 「マジでしてねぇからな」 「ならいいんだ」    いや、たぶん、きっとしていた。  夏になると、遥か遠い過去の記憶が蘇る。歩と過ごした輝ける日々。そして、歩を失った残酷な景色。それらが嫌でも脳裏に浮かぶ。だから、夏をどうやって過ごせばいいのか、長らく分からないままだった。  俺の不安も後悔も、歩はきっと全部お見通しなのだろう。しかし、今回歩が里帰りに連れ出してくれたおかげで、過去に残してきた蟠りや葛藤が、少しは解消できたように思う。  次から次へと花火が上がる。暗い夜空を埋め尽くす勢いで、立て続けに大輪の華が咲く。近くにいたら、きっと圧巻の迫力だろう。  けれど、このひっそりとした海の真ん中で、歩と二人きりで寄り添って、誰にも邪魔されずに眺める花火ほど特別なものはない。ここが俺の、俺達の、特等席なのだ。   「准」 「ん~?」    ちゅ、と柔らかいものが触れた。俺は思わず頬を押さえて振り向く。鮮やかな光を映していた隻眼が、真っ直ぐにこちらを向いていた。悪戯っぽく微笑んだかと思えば、すぐにまた視線を空に戻してしまう。   「な~に今の。続きは?」 「んなもんねぇよ」 「なぁ~、お前の准は続きがしたいって言ってるよ~?」 「後でな」 「後っていつよ」 「後は後だ。今は花火だ」 「んなこと言わずにさぁ~」 「じゃれつくな。てめェも花火に集中しろ」    花火がフィナーレを迎えるまで、誰もいない海の上、潮風を浴び、波の音を聞きながら、二人夜空を見上げていた。

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