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50. 懐かしい匂い

 次の日の朝になって、塔の部屋を訪ねてきたのは、使用人の一人だった。  手には軽食の乗ったトレイを持っていた。 「エミ……あ、ミッチェル様」 「あはは、良いよ。言い慣れてるエミで。僕と二人のときなら、今まで通り普通に話して」  使用人同士で話している時間のほうが長かったから、今更ミッチェル様なんて言われても、気恥ずかしいだけだ。 「じゃあ失礼して、エミと呼ばせてもらうわね。奥様から、もう少しここで待っていてほしいと言伝(ことづて)を預かってきたわ。食事は私たちが運んでくるので、一人でここを出ないようにね」 「何かあったの?」 「うーん、そこまでは聞いてないのよね。旦那様も戻られないし、奥様も数日出かけるとおっしゃってたの」 「そっかぁ……。ごめんね、引き止めちゃって」  トレイを受け取りながら、僕はお礼を言った。 「お昼の食事の時に回収するから、そのまま部屋に置いておいてね」 「うん、ありがとう」  お父様のあの怒鳴り声を聞いたのかもしれないのに、普段と変わった様子は見せなかった。  何かを知っていても、秘密を守るという使用人としての態度なのだろうけど、普段と変わらない態度なのは、正直ホッとした。 ◇  結局、そのまま数日何も変化のない日が続いた。  毎日、食事を届けてくれる使用人が、その日の出来事などを話してくれるけれど、代わり映えはしなかった。  両親は出かけたまま戻らず、僕は塔の一室から出られない。  本来ならばありえない状況なのだろうけど、屋敷には使用人だけが数人過ごすという異常事態となっていた。  フレッドが怪我をした時に、お父様から僕に向けて発せられた『疫病神』という言葉が脳裏に浮かんだ。けれど、否定するように、頭をブンブンと横に振った。  オメガの存在が悪い。疫病神だから不幸が降りかかる。そんな馬鹿げた話があるわけない。  現在のハイネル家の異変は、以前と変わってしまったお父様自身が、引き起こした問題だと思う。それを今、お母様やペーターが水面下で調べているんだ。  だからまもなく真実が解明され、この異常事態も落ち着くはずだ。  不安の全てが解消されるわけではないけれど、僕はいつものように『大丈夫、大丈夫』と呪文のようにつぶやいた。  それからまもなくして、扉がノックされた。  ちょうどお昼の食事の時間だろうか「はーい」と扉の方に向かって返事をして、鍵を開けた。なのに、扉が開いて人が入ってくる気配がしない。  ああ、トレイを持ってるから開けられないんだっけ。いつも「開けてー」って言われるので気にしなかったから、うっかり開け忘れてしまっていた。 「ごめんね。今開けるよ」  そう言いながらゆっくり扉を開けると、目の前には予想もしなかった人物が立っていた。 「──っ!」  思わず息を呑んだ。  脳の処理能力が追いつかないというのは、こういうことを言うのだろうか。  時間にしてほんの数秒の出来事だった。  僕は信じられない気持ちで、目の前にいる人物の、頭の先から爪の先まで舐め回すように見てしまった。 「……久しぶり」  目の前の彼はゆっくりと右手を上げると、照れくさそうにそう言った。  驚きのあまり止まっていた思考がやっと動き出した。  目の前の人物を認識すると、僕の口からは、ずっと会いたかった人の名前が飛び出してきた。 「……フレッド!!」  記憶の中のフレッドよりも、背は高くなり、声も幾分低くなったように思う。  それでも、はにかんだように話す優しい声は、何も変わってはいなかった。  思わず僕は、フレッドの胸に飛び込んだ。懐かしい匂いがする。 「会いたかった……!」  あまりにも懐かしくて魅力的な匂いに、僕は大きく息を吸い込んだ。

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