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第3話

「ご、ごめん……ありがとう」  薄暗い路地裏を抜けて少し歩いた先にあるベンチに促され、腰を下ろした桜井はかろうじて礼を告げる。立ったままの神崎は大きく息を吐いて腕を組んでいた。真っ直ぐな眼差しに耐えかねて思わず俯くとよく磨かれた神崎のローファーが目についた。 「あの男に何された。必要なら通報するけど」 「いい、いいから! 神崎くんが助けてくれたし」  桜井が首を激しく左右に振ると神崎が目の前にしゃがみ込んだ。顔を覗き込むようにして近づかれ、咄嗟に息を止める。無言の圧で状況説明を求められているのはわかった。  桜井は渋々口を開いて、なるべくことを大きくしないように言葉を選ぶ。 「腕掴まれてわけわからないこと言われただけ……」 「なんて言われた?」  思いがけず優しい声に心臓が跳ね上がる。教室にいる神崎からは聞いたことのない声音だった。  本気で桜井を思い遣る気持ちが滲んでいて自然と心を動かされる。もっと当たり障りのない言葉で誤魔化そうと思っていたのに、口は正直に言葉を紡いでいた。 「……高校生か訊かれて、ホ別五出すとかなんとかって」 「あー……それ、ホテル代は別で五万出すから体売ってくれって意味。きめぇ奴だな本当に」  神崎に説明されて、あれは身体を売らないかと持ちかけられたのだと気づき桜井は固まった。社会問題にもなっており、性別も年齢も関係ないことはニュースで見たことがあるけれど完全に油断はしていた。まさか自分がという気持ちで呆気に取られる。 「こういうことよくあんのか」  首を横に振ると神崎は安堵したように息を吐いた。 「気をつけろよ。あえて素人探してる奴いるから」 「神崎くんも言われたことあるの」 「ねーよ。ああいうのは俺みたいな奴じゃなくて桜井みたいな大人しそうな子狙ってんの」 「そう、なんだ……」 「昨日もだけどなんであんなとこに一人でいたんだ?」  責めてるわけじゃないけど、と付け加えた神崎の言葉に桜井は口を噤む。  神崎を信用して全てを話していいものかと悩んだ。しかしここまで助けてもらっておいて嘘をつくのは憚られる。桜井を助けてもメリットがない状況で、なりふり構わず助けてくれた神崎を騙すわけにはいかない。  街灯に照らされる神崎の顔を見つめ返し、桜井は控えめに唇を開いた。 「……バイト、してるから」  か細い声で答えると神崎が目を瞠った。純粋な驚きが滲むその表情に、やはり今自分が通っている高校は裕福な人間が多いのだと気付かされる。高校生がアルバイトをしているなんて本来はそう珍しい話ではない。  気まずさから目を逸らすと神崎は興味津々といった様子で桜井に近づいた。 「家族がやってる店の手伝い、とかじゃなくて普通にバイト?」 「うん」 「すげー意外」  神崎は言葉通り、本当に意外そうに呟いた。どんなイメージを持たれていたのかはわからないが、神崎が桜井のことを考えた瞬間が存在しているのは不思議だった。名前さえ覚えられていないと思っていた相手とこんな風に話すことになるとは思っていなかった。 「まあ桜井のことだからなんか事情があるんだろ」  神崎はそれ以上深堀りはせず立ち上がった。  見上げる位置にある整った顔は依然としてこちらを見ている。神崎の癖なのか、じっと目を見て話されると妙に緊張した。ベンチに座ったままの桜井の足が竦んでいる。  このまま帰るのはなぜだか惜しい気持ちになった。  自分とは住む世界が違うと思っていた同級生と、校則違反のアルバイトをしているという思わぬ接点を見つけ、今まで誰にも言えなかったことを打ち明けたくなった。秘密を知られてしまったことでやけになっているのかもしれない。  二人の間に沈黙が生まれ、絶妙な間が空いた。  どちらからともなく帰る提案をすれば間違いなく解散する流れになっていたはずだが、二人してその場を動けない。あまり話したことのない同級生と夜空の下で二人きりという異様な空間が何もかもを狂わせている気がした。 「……僕はお金が必要だからバイトしてる」 「お金?」  自然と桜井の方から会話を切り出していた。  神崎が片眉をあげて怪訝そうな顔をする。働く理由の多くはお金のためであるのは当然とも言えるが、桜井の場合は小遣い稼ぎのような目的ではない。神崎にもそれは伝わっている様子だった。 「うちの家、母子家庭なんだ。あ、親から虐待受けてるとかバイトしろって強要されてるとかじゃないよ。……特待生だから学費は免除されるけど学校でかかるお金全部じゃないし、生活費の足しにもしないといけない。バイトしてるのはそれが理由。それであの場所にいたんだ」  なぜ神崎に話したいと思ったのか理屈では説明できないけれど、今話すべきだと思った。この一夜限り、交わらない世界で終われる話のような気がした。  案の定、神崎は真剣でいてそれほど深刻ではない表情で桜井の話を聞いている。激しく同情されることも申し訳なさを覚えるため神崎の反応は気が楽だった。 「他の人には黙っててくれる?」  今朝神崎が桜井に言ったことを、桜井もそのまま返した。  釘を刺さずとも神崎は誰にも言いふらさない確信はあったが、念のために伝えれば神崎が困ったように微笑む。 「俺にそんな話してくれていいの」 「神崎くんもバイトしてるの知っちゃったし」 「そうだけどさ。なんつーか……俺避けられてると思ってた」 「避ける? 僕が?」 「クラス、一緒になったのに全然喋ったことないから」  神崎はそう呟いて桜井の隣に座った。  どこか拗ねたような横顔が少し可愛いと思った。洗練された見た目の印象から大人びた雰囲気を漂わせていたが、表情は年相応に幼い。想像していたよりもずっと親しみやすい人なのかもしれない。 「避けてなんてないよ。ただタイプが違うから話す機会がなかっただけ」  決して神崎に悪印象を抱いていたわけではない。  神崎は目を惹く美貌を持ち合わせている上に高身長で、鍛えているらしく服越しでも体の厚みがそれなりに分かりスタイルがいい。明るい髪色と数個耳を彩るピアスは彼によく似合っていた。  一方で桜井は子どもの頃から縦にも横にもさほど成長せず華奢な体つきだ。美容室代を節約するために時折自分でハサミを入れる切り揃えただけの黒髪は遊び心などない。流行りにも疎く、清潔感があればそれでいいとオシャレにも無頓着だった。  そんな二人が交わることがないのは自然なことに思える。 「僕が地味だから神崎くんと関わることなんてないと思ってた」 「地味っていうか、真面目なタイプなだけだろ」  桜井の自虐を訂正する律儀さに思わず笑った。  もう一年以上前になる入学式の代表挨拶を覚えていたり、困ってる桜井を助けたり、華やかな見た目の印象からは想像もできない真面目な好青年とも言える。話してみないとわからないものだなと神崎を見つめた。 「まさかこんな形で話すようになるとは俺も思ってなかったけどさ」 「まあ、確かに思わぬ共通点だよね」  桜井が同調すると神崎がこちらを見た。真剣な眼差しに思わず息を呑んだ。 「俺は早く家出たくてバイトしてる」  桜井がアルバイトをしている理由を話したからなのか、神崎も理由を語り始めた。  お金持ちと噂されている神崎がアルバイトをしている理由は確かに気になっていたため、遮らずに話に耳を傾ける。 「うちの親、家にほとんどいないくせに成績とかには厳しいんだよ。周りの評価を気にしてるんだと思う」 「じゃあ親御さんはバイトしてること知らないの?」 「言ってない。反対されるだけだ」  神崎の言葉に桜井は目を瞠る。  高校生になったらアルバイトをするという選択肢しかなかった桜井とは違い、アルバイトをすることで親に叱られる子どももいるのだと素直に驚いた。 「世間知らずな坊ちゃんって扱いされるからそれが嫌でバイト始めた」  校内に知れ渡っている噂はやはり嘘ではないらしい。  とはいえ家族のことを語る神崎の目はどこか寂しげで、お金があるからといって何もかもが上手くいっているわけではなさそうだ。深く問いただすことはできないけれど、表情や口調でなんとなく察した。  事情はそれぞれ違うが二人は共通の秘密を抱えている。 「俺たち秘密握り合ってるな」  心の内を読まれたのかと思いどきっとした。  神崎のどこか悪戯っぽい笑みに思わず笑い返す。  同じクラスなだけで接点など何もないと思っていたはずの神崎と、今だけは気持ちが通い合っている気がした。 「……そうだ。神崎くん、お腹空いてない?」 「え?」 「これ、食べない?」  賄いで貰ったピザを袋から取り出す。小分けにして包装したそれを見せると神崎が笑った。 「どしたのこれ」 「賄いだよ。神崎くんのバイト先の斜め向かいにあるイタリアンレストランで働いてる」 「マジ? 飲食で働いてんのもすげー意外だわ。本屋とかだと思った」  神崎はそう言って貰っていいの、と桜井の目を見て微笑みかけてきた。あまりに自然な笑みに桜井は思わず唖然としつつ、慌てて頷いた。慣れないやり取りにじわじわと頬が熱くなる。 「……口止め料ってことで」 「はは、いいね。ありがと」  今朝もらったコーヒーのお返しになるかは不明だがピザを差し出す。神崎はそれを笑顔で受け取るとおもむろに包装をはずしてピザを齧ったため目を瞠った。 「さ、冷めてるでしょそれ、家であっため直した方が……」 「冷めてても美味いよ」  神崎は何でもないことのように答えた。  薄暗がりの中でピザを食べる美少年、という些か奇妙でありながらも何故か絵になる横顔を眺める。  嗅ぎ慣れたはずのピザソースの匂いも、この状況が相まって全く違うものに感じた。大きな一口でみるみる減っていくピザを見て、桜井も倣うように包装をはずした。 「桜井まで今食わなくていいよ。あっためた方が美味いんだろ?」  神崎の大きな手が桜井の手の甲に触れて静止されたが首を左右に振る。 「ううん。一緒に食べたいから」  桜井の言葉を神崎は冷やかすでもなく静かに受け入れてくれた。  少し硬い生地と固まったチーズの食感。何度も口にしているはずのものが妙に美味しく感じた。  誰かと夕飯を共にするのはいつぶりだろうか。振り返ってみても思い出せない。母は基本的に夜勤で家を空けているし、友人と外食することもない。桜井にとってはこんな状況さえ貴重な経験だった。 「……誰かと食べると美味しいんだね」  思わず呟いた言葉は少し湿った空気を纏っていて自分自身で驚いた。妙な雰囲気にしてしまった申し訳なさから慌てて話を変えようと顔を上げると優しい目をした神崎と目が合う。穏やかな笑顔に焦りが剥がれ落ちていった。 「また一緒に食べる?」 「え……」 「俺、基本家で一人だし。誰かと食べることあんまりないからまた相手して」  桜井に気を遣ってくれたのか、それとも本心なのか。  神崎の意図は掴めないけれど、思わずしっかりと頷く。桜井の反応に満足げに笑った神崎に頭をがしがしと撫でられて驚いた。頭を撫でる手の重みがやけにこびりついて離れてくれない。  近くで見た神崎の笑顔は目が眩むほどに綺麗だった。

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