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第4話

「おはよ」  目の前に影が落ちて頭上から少し気怠げな声が降りかかる。  突然のことに驚きながら顔をあげれば、そこには眠そうな顔をした神崎が立っていた。朝日を横顔に受けて眩しそうに目を細める仕草すら様になっている。ふわりと白いレースカーテンがはためいて、まるでドラマのワンシーンのようだ。  桜井は単語帳を机に置いて軽く頭を下げた。 「お、おはよう……早いね」 「桜井こそ。いつもこんな時間に来てんの」  神崎は欠伸をこぼして目の前の椅子を引っ張り腰を下ろした。まだ桜井以外は誰も登校していない教室に神崎の声がやけに響く。かろうじて頷く桜井を尻目に、机の上に置いた単語帳を神崎がおもむろに手に取ってパラパラとめくる。  桜井は沈黙に耐えかねて視線を泳がせた。  早めに登校して花壇に水やりをしたあと、誰もいない教室で勉強するのが日課になっていたため目の前に神崎がいることが不思議な感覚だった。  昨晩のことは夢だったのかもしれない、と半ば本気で思っている。  異質なシチュエーションに気を取られてあまり意識していなかった昨晩とは違い、改めて明るい時間帯に面と向かって話すのは緊張する。  どんな顔をして話せばいいのか、距離感もうまく掴めず曖昧に微笑んでみたがぎこちない。  頬が引き攣っているのが自分でもわかる。  形容し難い気まずい空気が流れているのは肌で感じていた。神崎に見られていると思うと頭の芯から熱くなってぼうっとする。 「やっぱり俺のこと怖い?」  突然顔を覗き込まれて息を呑んだ。  眉を下げて子犬のような瞳で見つめられると激しく動揺してしまう。連日神崎の意外な一面を見せつけられて脳が処理しきれない。 「違うよ」  慌てて否定する声が若干震える。神崎は不服そうな顔を隠しもせずに下唇を少し突き出した。 「全然目合わせてくれない」 「そ、れは……緊張してるだけで」 「なんで桜井が俺に緊張するんだよ」  自分の顔を鏡で見たことがないのか、と思わず言いたくなったが言葉を飲み込んだ。  無言でこちらを見てくる神崎の圧に押されながら桜井は唇を開く。 「神崎くんこそ、どうして僕に構うの」  ちょっとした反撃のつもりでこちらから質問すれば神崎は虚を突かれたような顔をした。言ったそばから今の言い方は感じが悪かったかもしれない、と後悔し始める。やはり慣れないことはするものではない。  恐る恐る神崎の方を見遣れば、想像以上に柔らかい表情をしていた。  口元を緩く持ち上げてこちらを見る目は意味ありげで言葉に詰まる。 「桜井のこと気になるんだよ」 「は、」  思いがけない返答に思わず間抜けな声が漏れた。  神崎は身を乗り出して桜井に近づく。さらりと明るい髪が目の前で揺れた。 「桜井って頭も性格もいいのにいつもつまんなそうな顔してるから」  衝撃的な言葉に桜井は目を瞠った。  それはあまりに失礼で直球で、何より否定できないものだった。僕の何を知っているんだ、と言いたくなると共に図星だと実感している。  桜井は唇を開閉させたけれど言葉は出ず、ただ吐息が溢れるだけだった。 「ほっとけない、って勝手に思う」  神崎の言葉に桜井は首を左右に振った。喉の奥が締めつけられてひどく熱い。  自分はそんな風に気にかけてもらうほどの人間ではない。後ろめたさから、神崎と目が合わせられなかった。 「……性格も頭も別に良くないよ。買い被り過ぎ」  桜井はかろうじて言葉を振り絞った。  必死に勉強しているのは学費免除のため。要領もさほど良くないため、頭の良い人間には敵わないと思わされる瞬間はたくさんあった。もし自分が裕福な家庭に生まれていたら、間違いなくここまで頑張れてはいなかっただろう。正直なところ勉強は好きじゃない。  朝早く学校に来て水やりなどの雑務を引き受けるのは、先生へのアピールが含まれていないと言えば嘘になる。  そうした打算的な善性で作り固めた優等生像をなぞる小賢しさに、時折自分でも嫌気がさす。  何をしていても、本当の自分ではないような気がしていた。  神崎に抱いていた何とも言えない緊張感の正体が今になってわかった。  神崎の綺麗で澄んだ瞳に、何もかもを見透かされてしまうという直感から来る本能的な恐怖だったのだ。 「桜井が否定しても、少なくとも俺の目にはそう見えてるよ。頭が良くて、性格もいい。桜井が顔くっしゃくしゃにして笑ってるところとか泣いてる顔とか見てみたい」  さらりととんでもないことを言われて思わず顔を上げた。  笑顔も泣き顔も見たいだなんてどこの口説き文句だ、と苦笑する。本人は至って真面目そうなところに戸惑った。  頬杖をつきこちらを真剣に見つめる瞳から目を逸らす。  何もかも手にしている人間には到底敵わないと思い知らされる。視線ひとつでこんなにも相手を動揺させることができるのだ。  返す言葉に迷っていると教室の扉が開いて生徒が数名入ってきた。静かだった教室にたちまち騒がしさをもたらして、二人の間だけにあった空気は溶けていく。 「……僕といても楽しいことないよ」  絞り出した言葉を残して桜井は席を立った。

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