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第6話

「……あれ、」  桜井は校舎裏付近にある用具箱を覗き思わず声を漏らした。  定位置に鎮座しているはずのゾウ形のジョウロが見当たらない。扉を閉めていつも水を汲む蛇口へ向かうと濡れていて使用された痕跡があった。  まさかと思い花壇へと駆け足で近づくと人影が目についた。  片足に重心をかけてポケットに手を突っ込む立ち姿がモデルのように見える。  紛れもなく神崎だと悟って思わず身構えた。しかし桜井の警戒も虚しくこちらに気づいた神崎はパッと表情を華やがせて手を振る。念のため辺りを見渡したが当然この場には桜井しかいない。桜井に向けられた笑顔だと確信し、ぎこちなく会釈を返した。恐る恐る神崎の方に歩み寄れば彼は大股でこちらに近づいてくる。 「おはよ」  朝の冷たい空気に溶け込む少し低い声。クラスメイトに囲まれている時とはまた違った落ち着いた空気が緊張をより高める。 「……おはよう。なんでここに?」  神崎の視線に耐えかねて濡れた花びらに目線を移す。  水やりは丁寧に行ってくれたらしく、花々は均等に水を浴びていて内心安堵した。  「桜井と話したくて来た」  さらりと告げられた言葉にもはや動揺しない自分が怖い。  拒絶されるとも思っていない、人気者ゆえの自信に満ち溢れた言動は清々しさすらあった。生まれ育った環境が違うのだと肌で感じる。神崎の眩しさにあてられて思わず笑った。純粋な羨望と自分とはまるで違うという自虐を含んでいる。 「ごめん勝手に水やりして」 「いや、全然いいよ。元々僕の当番ってわけでもないし」  当番をサボる生徒が多く枯れかけた花を見かねて水やりを始めたところ、先生に褒められたのをきっかけになんとなく日課になっただけだ。いつの間にか当番制ごと消滅し、時折用務員の人が肥料を足したり雑草を抜いてくれたりしているため桜井は水やりを担当する流れになった。  流石優等生、という一言に乗せられたようなものである。 「結構広いな。一人だと大変だろ」 「慣れたから平気」 「ほら、やっぱり優しいじゃん桜井」  やっぱり、の文脈が読めずに桜井は曖昧に微笑んで首を傾げる。神崎はやや不服そうな顔をした。 「みんなが嫌がること率先してやって誰にも自慢もしない」 「そういうのじゃないよ」  屈託なく褒めてくれる神崎の言葉がちくりと胸に刺さる。  優しさを演じている自分に気づいていると、本当に優しい人に出会ったとき自分の小ささを知る。それこそ神崎のように、見返りも求めず桜井を助けたり褒めたりできるような人間といると惨めな気持ちになった。  俯いていると顔を覗き込まれて息を呑んだ。 「……なあ桜井、もしかして入試の日のこと覚えてない?」 「え?」  入試、という突拍子もないワードに目を丸くする。  桜井の反応を見て眉根を寄せた神崎が数秒後には眉を下げてコロコロと表情を変えた。子犬のような表情はこちらの良心を痛ませてくる。 「え、その反応ってことは本当に覚えてない?」 「ご、ごめん……なんのこと?」  神崎は落胆したようにため息をついて花壇の縁に積み上がった煉瓦に腰を下ろした。  見上げるほど高い位置にあったはずの小さな頭が目線の下で項垂れている。こちらが悪いことをしているような気分になり恐る恐る距離をとって神崎の隣に座った。 「覚えてないならそりゃ俺に優しいとか言われても意味わかんねーよな」  独り言なのか語りかけられているのかわからず相槌も打てない。  桜井は視線を彷徨わせながらただ静かに神崎の横顔を盗み見た。神崎は小さく息を吐いたあと、思い出を辿るように遠くを見て唇を開いた。 「外部生の入試日、内部進学組は休みでさ、俺そのとき体調崩して朝から病院行ったんだ」 「……うん」 「で、向かってる途中で眩暈がして道の端に蹲ってたら声かけられて」  ふと顔をこちらに向けた神崎と目が合う。神崎は目を細めて優しい笑顔を浮かべた。 「単語帳片手に駆け寄ってきてくれて、あー受験なんだろうなって思った。この辺高校ここしかねーし。大事な日だし放っておいてもいいのに自販機で水買って渡してくれた」 「え!? あれ神崎くんだったの?」 「思い出した?」  驚いて目を瞠ると神崎はそんな桜井を見て笑った。  神崎に言われるまでそんな出来事すら忘れていた。それくらい受験に必死で、あの日の出来事はあまり覚えていない。言われてみれば確かにそんなこともあったな、ぐらいだ。  記憶を捻り出せば、助けた相手はマスクをつけていた上に私服だったため大学生ぐらいだと思っていたような気がする。まさかそれが神崎だとは思いにもよらなかった。 「新入生代表で挨拶してるの見た瞬間すぐ気づいた」 「ご、ごめん、全然知らなくて、」 「なーんだ。俺は運命だって思ったのに」  運命、というやけにロマンチックな響きは神崎が紡げばそれっぽく聞こえるから不思議だ。桜井にしてみれば運命というよりは単なる偶然にも思える。ただ神崎が運命と呼ぶならばそうなのだろうという妙な説得力に気圧された。 「あの時はありがとう。一年越しぐらいになったけど」 「いやいや全然……そっか、だから僕に話しかけてくれたんだ」  運命かと言われれば首を傾げるものの、神崎が桜井に構う理由はわかった気がする。意味もなく神崎が桜井に構うはずもない。桜井は静かに納得していた。  あの出来事に恩を感じているのであれば律儀な人だなと思う。買った水を渡したくらいで病院について行ったわけでもなく入試にも無事に間に合った。改めて礼を言われるほどのことではない。 「確かにきっかけはあの日のことだけど、そのあと目で追っててずっと話してみたかった」 「……神崎くん、変わってるって言われない?」  思わず問いかけると神崎は言われない、と即答して笑った。 「今日もバイト?」  あたりを気にしながら囁くように呟かれた言葉に桜井は首を左右に振る。すると神崎が満足げに笑ってポケットから紙切れを取り出した。目の前に差し出されたそれを反射的に目で追う。 「これ、行こ」 「……ラーメン無料券?」 「そう。また一緒にご飯食べよって話しただろ?」  口約束とも呼べないレベルの発言を彼はきちんと覚えていたらしい。当然桜井も覚えてはいたもののまさか実現するとは思っていなかった。  別の人と行った方が楽しいのではないか、と口を挟もうとしたところで小指を差し出される。きょとんとしていると神崎が目の前に小指をさらに押し出してきた。 「約束。今日の放課後」 「本気で言ってる?」 「もちろん」 「……僕とでいいの」 「当たり前じゃん。桜井誘ってんだから」  絡められた小指に触れる熱。目を灼くほど眩しい満面の笑みから目を逸らせなかった。

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