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chapterⅢ 恋人ごっこ①

ひとりになった自室で頬を二回ほど叩いて顔を引き締める。もう十年も前の話ではあるが、三つ子の魂なんとやらと言うように一生消えない記憶。 慎文との距離感に自ら予防線を張って警戒をしているおかげか、今のところ奴から襲って来るような気配がないことが唯一の救いだった。できれば慎文がこの家にいる限りは部屋から出たくはない。 しかし、不自然に突き放して逆上されて再び犯されでもしたら今度こそ生きていけない気がした。  自分も二十代の時とは違う。今は三十代のいい大人だし、奴も奴で成長していると思いたい。ここは大人な対応で奴と距離を取りながら過ごすしかなかった。  和幸は扉前で一息を吐き、ドアノブを握るとそのまま押し開けた。すると奴の顔が目の前に現れ、声にならない驚きで心臓が止まりそうになった。 「何?ビックリしたんだけど……」 「なんでもない……。カズくん、なかなか出て来なかったから。朝ごはん食べるよね?」 「あぁ……」  部屋から出てくるまでずっと待っていたのかと思うと背筋が凍る。同時に、部屋に入る前に奴に釘を刺していた自分の判断は間違えていなかったのだと安堵した。中に入られたら何をされるか分かったもんじゃない。 慎文は返事を聞いてそそくさとキッチンへと入っていくと上機嫌に朝ごはんの支度をしていた。和幸はダイニングテーブルの椅子に座り、新聞紙を広げて読みながらも奴の観察をする。  慎文は自宅に遊びに来ると朝晩の御飯を作ってくれる。料理だけではなくて家事全般してくれていた。 かれこれ奴が年一で訪問してくるようになって三年目だろうか。初めは和幸の母親の遣いで「息子の様子を代わりに見てきて」と言われたらしく、此奴が来た。  就職前以来の忘れかけていた奴が玄関先で待っていた時にはこの世の終わりではないかと思ったほど、絶望したのを覚えている。 二度目は奴が自主的に訪問してきた。 一度目の時に意地でも此奴を自宅に泊まらせたくなくて、ホテルに宿泊する交換条件で嫌々連絡先を教えた番号から、十二月に入って「カズくんに会いに行きます。楽しみにしてるね」と届いたショートメール。それ以前にも電話がしたいだのメッセージが送られてきていたが和幸は全て無視をしていた。 当然、当日になって日帰り温泉と称して奴から逃げようと試みたが自宅最寄りのコンビニで捕まってしまい、敢え無く奴と過ごすことになってしまった。 しかも、一日や二日だけではなく一週間も滞在してきた。「カズくんの御飯は俺が作る」とその時から言い張ってきて、交換条件で自宅に泊めることを許してしまい、今回が三度目。 当時は最初こそ疎ましかったが、平日の仕事から帰宅して御飯があるのは正直助かっていたところもあった。嫌いな奴とはいえ、甘えてしまったことで此奴を調子に乗らせてしまった感が否めないが此奴を受け入れたわけじゃない。幸い、今のところ手は出されていないから甘んじているだけだった。 暫くしてテーブルに二人分の目玉焼きと、奴が地元から持参してきたものであろうソーセージ、牛乳、御飯に味噌汁、焼き魚が並べられる。 和幸の毎日の朝食は牛乳に浸したシリアルで済ませることが多く、いつもの倍以上の朝御飯に呆然とする。   慎文は朝も早いうえに肉体労働だ。故に朝食はしっかり食べているだろうし、休日は遅く起きてだらだらと過ごす和幸とは生活リズムが全く違う。 朝からしっかりとした朝食を作ってくる奴には関心をするが、お茶碗山盛りの白米は流石に胃袋に堪える。   和幸は自らキッチンまで足を運び、炊飯器に半分ほど白米を戻すとダイニングの方から「カズくん、細いんだから沢山食べなきゃだめだよ」と頬を膨らませた慎文に口を挟まれたが、無視をして元の座席に座った。 「俺の朝はシリアル派なの。お前と一緒にするな」  何か言いたげな慎文を気にも留めず、和幸は「いただきます」と呟き味噌汁をすすると朝食に手を付けた。 暫くして向かいの奴も食事を始める。ふと視線を感じて顔を上げると、慎文はニコニコしながら此方を見てきていた。 敢えて触れずにやり過ごそうかと思ったが、奴からの視線が落ち着かない。耐えきれずに「さっきからなに?」と問うと「毎日カズくんとこうだったら幸せなのになーって思いながら眺めてた」とぶれない笑顔で返してきたので、いちいち気にしていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。 こいつと毎朝のように食事をするなんて考えただけで身震いする。いつ奴に襲われるか分からないのを警戒しながら生活しなくてはいけないなんて気が休まらない。  奴が訪問してくることも自宅に泊まることも容認しているとはいえ、強引に物事を進めようとしてくるのは変わらないし、冷たく突き放そうとしたら目に見えて分かるほど悲しそうな表情を見せるので扱いに困り果てていた。 「お前、いつまでいるんだっけ?」 「二十五日まで。二十六日の夕方に帰る」  今日が十八日なので約八日間。今年のクリスマスは土曜日に大被りなので、土日が所定休日の和幸は奴と一緒に過ごすのは必然的。  敢えてなのか、去年もド平日にもかかわらずクリスマスに被せてきたので慎文なりの思惑があるのだろう。どうせ奴の考える事ならば、世間となんら変わりない理由のような気がするが……。 「そんなに家を空けてて大丈夫なのか?実家とはいえ長期で休めるもんでもないだろ」 一週間とは言わずに一日でも早く帰って欲しいところではある。皮肉を込めて問うたつもりであったが慎文には伝わってないのか、 あっけらかんとして首を左右に振った。 「ううん。兄に許可貰ってるから大丈夫だよ。それに今年は用事もあるから……」 「そう……。俺的にはさっさと帰って欲しいくらいだけどな」  慎文の用事が何なのか気にはなったが奴にも事情はあるだろうし、敢えて聞かずに悪態吐く。  すると、慎文はわかり易く頬を膨らませてテーブルを両手拳で叩いてきたので、その衝撃に驚いて体がビクリと跳ねた。 そんな和幸の反応を目にして、慎文が眉を下げて小さく「ごめん」と呟く。慎文から情けを貰って謝られるのも、年下相手に尻尾を撒いている姿も見せるのも年上の威厳がある。和幸は咳払いをして誤魔化した。 「まだ来たばっかりだし、帰りたくないよ……。カズくんと全然話せてないっ」  和幸の言葉を気にしているのか、頭を俯けてあからさまに落ち込んだ様子をみせる。 お通夜のような重たい空気で食う朝飯ほど不味いものはない。  嫌いな奴に気を遣うのも変な話ではあるが、和幸は深く溜息を吐き、「居てもいいけど、余計なことはするなよ」と言ってやると慎文は「うん」と嬉しそうに頷いた。 取り戻した空気にニヤニヤと笑みを浮かべて、此方を見てくる向かいからの視線を気にしながらも、和幸は朝食をかき込むと「御馳走様でした」と両手を合わせて即座に食器を流し台へと運ぶ。 未だに御飯を食べている慎文をいいことに、そのまま部屋へ直行しようと足を進めると、奴は慌てたように座席を立って、ドアノブを握ったところで左腕を掴んできた。 「ひっ」  不意の出来事に思わず声にならない悲鳴が喉を鳴らす。 「待って。カズくんと出かけたい」 「お前と出かけるなんて、俺は嫌だ」 「それじゃあ、俺が来た意味ないじゃん……。少しくらい俺に付き合ってよ」 掴まれた腕に力が込められ、唇を噛んで寂しそうな表情を浮かべている。和幸の一番苦手な顔だ。    拒絶をしたところで此奴は意地でも離れてくれないような気がした。 自分の細めの腕と奴の逞しい腕では見た目からして力の差があるのが分かる。 「分かったから離せ。行きたいところ考えておけよ」  それに、外出をすれば周りを気にして慎文も必要以上に接近してこないような気がした。 慎文と一緒に居る以上、奴と行動を共にしなければならないのは避けられないだろうし、どちらか選択をしなければならないのなら外出を選ぶ方が得策だろう。  和幸からの許可を得て余程嬉しかったのか、慎文は掴んだ手を潔く離すと両手を挙げて子供のように喜々としていた。    和幸は深い溜息を吐きながら台所へ向かうと、水道から水を出してはスポンジを握る。  どうせ出掛けなければならないのであれば食器を片付けてしまいたい。 無言で作業を始めた和幸を見てか、慎文が「俺も手伝う」と食器布巾を手に取ると隣で和幸が洗ったお皿たちを拭き始めた。 「お前、どこ行きたいんだよ」 「んー……。レースゲームがしたい」  朝食で使った皿を洗いながら慎文に問い掛けると、奴は暫く考えた素振りを見せると耳朶を赤くさせながらそう答えた。 「わざわざこっちまできてゲーセンって学生のやることだろ」 「だって、カズくんと遊びたいから」  確かに慎文を警戒する出来事が起きる前は、自宅でゲームばかりしていた。 しかしそれは、中学生や高校生だった頃の話。    大の大人がゲームセンターって……。 こんな寒い日に乗り気にはならなかったが、拒否したところで、「じゃあ、家にあるゲームで」となればまたうっかりキスをされたんじゃ洒落にならない。 だからと言って他の案は浮かばず、暇をつぶせるのであれば快諾するしかなかった。 和幸が鬱々としている傍らで慎文は鼻歌を口ずさみながら、拭いた食器を棚に片付けていた。 黙って見ていれば素直でいい奴なのは分かる。家事だって率先してやってくれるし、特別な感情さえなければ可愛い弟分で済んだのかと思うとやるせなかった。

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