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chapterⅣ 指輪にキスと奴の不穏③

もし近くに慎文がいるのであれば奴なら会社に顔を出しに来かねない。そんな不安は杞憂に終わったのか、気が付けば終業時間になり、和幸は安堵の息を吐いた。 会社のビルを出て一息ついた束の間、建物前の丸い輪の石像オブジェの前に慎文が突っ立っていたのが見えて身が竦んだ。 そういえば家を出た直後に迎えに行くと連絡があったことを思い出したが、何より驚いたのは奴がダウンコートにスーツ姿であったからだった。 「カズくん、お疲れ様」  近づいてくる和幸の気配に気づいたのか慎文はこちらに視線を向けてくるなり、わかり易く表情を華やかにさせながら迎えてきた。 やはり昼に女子社員が話していた矢木田は此奴で間違いないのではないだろうか……。 「お前、その恰好はなんだ」 「今日から物産展だったんだ……。今年からうちの牧場も出店することになって……」  勿体ぶらずに疑問に思ったことを問うてやると、慎文は肩を竦めて恥ずかしそうに話す。 「どこで?」 「カズくんの職場近くのデパートだよ」  近くの物産展が催されるようなデパートと言えば思い当たる場所は限られてくる。  慎文の言う通り昨年は奴の実家が物産展に出展するなどは聞かなかった。 毎年のように目的が和幸に向けられていただけに気重であったが、今回の奴の目的が自分に会う目的以外であることに少しだけ気が楽になった。 「暇があったらカズくんも来てよ。仕事しているときにカズくんに会えたら俺、嬉しいなー」 「誰が行くか。仕事なら真面目に仕事の事だけ考えとけ」 そんな安堵した矢先の慎文の発言に、奴に聞こえるように大きな溜息を吐く。  目的が仕事であろうと何だろうと此奴の頭の中の優先順位は自分に変わりないのだと思うとやはり気を抜いてはいられないようだった。 「そんなの無理に決まってるじゃん。そもそも仕事なんてカズくんに会えればどうでもいいし」 「お前は馬鹿か」  無責任な発言をする慎文のおでこにチョップをお見舞いしてやろうかと思ったが、手を挙げて奴の頭上に手の側面を持ってきたところで思い留まった。 それは慎文の表情が明らかに嬉しそうに口を緩めて伸ばした手が届くようにご丁寧に頭を下げていたからであった。 奴にとっては、体罰だったとしても触れてもらえるだけでもご褒美ってか……。 和幸は慎文には触れずに手を下ろすと誤魔化すようにコートのポケットに突っ込んでは半歩先を歩く。 「お前もとっくに二十歳過ぎてんだから少しは自分の言動に責任持て。つか、仕事があったんならそう言えよ」  溜息を吐くように慎文に説教をしてやると「驚かせたかったから……」と弱々しく呟きながら肩を並べてきた。 「俺さ、仕事とか学校帰りにカズくんと並んで帰るのが夢だったんだよね」 「なに、お前は帰り道デートとかしたことねぇの?お前の容姿なら恋人の一人や二人くらいいただろ?」 「いないよ。俺はカズくん以外とはデートしたくなかったから……」 「でも確かお前、初めては中学生の時に……」  和幸が慎文に警戒心を抱く出来事が起こった時、奴がキスもその先も済ませていたと話していたことは覚えていた。恋人じゃなかったら、なんだったのだろうか……。 「ふぁ⁉」 問い詰めようと慎文の顔を見た瞬間に右手を強く握られて、驚きのあまり変な声を出してしまっていた。 「お、お前、急にこんなところで止めろよ」  突然のことに吃驚し、反射的に慎文の肩を押して距離を取っては周りを見渡した。会社から左程離れていないこの場所で奴に手を繋がれるのは不都合極まりない。運が悪ければ同僚や会社の人間に見られる可能性が高いからだった。 そんな心配をする和幸のことなどお構いなしに、慎文は握った手を離すどころか指を絡めてくる。 「カズくん……。この後、晩御飯の買い物行きたい」 「ああ、分かったから。此処で手を繋ぐのはやめろっ……」 「……うん」  慎文の昔の話を問おうとしたとき、急に詰め寄ってきた距離に動揺させられたと思えばすんなり離された手。  手を離した慎文は「今日は何がいい?寒いからシチューかなあ」と軽快に喋り出したところから不信感を覚える。 動揺に紛れて何処か深い闇のようなものを感じた慎文の雰囲気は、なんだったのだろうか……。  特に気にしたところで、慎文も二十年以上生きていれば色々あるのだろう。急を要してまで聞き出したい話でもなかったし、和幸は今の一瞬のことを忘れることにした。

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