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第3話 非日常に身を預け
しばらくして涙は引き、ぼんやりと彼を見ていた。
聞こえてくるのは鉛筆を走らせる音や紙の擦れる音だけ。
何も言わずに見ず知らずの俺をここに入れてくれた彼がありがたかった。
思い立って、作業する彼の元に歩いていった。
眼鏡がなく、視界は微かにぼやけているが、気持ちよさそうに眠る猫の絵に目を奪われた。
彼の印象からは想像もつかない柔らかいタッチの絵だった。
「いい絵だね……あったかい」
そう声をかけると、彼は俺を見ながら不敵に微笑んだ。
「当たり前だ、僕が描いてるんだから」
「はは、すごい自信」
自然と笑みが溢れる。
そして、間近で見る彼の顔につい見惚れてしまった。
「近くで見ると綺麗だね」
言葉通りに目が離せないくらい美しい。
しかし、そんな俺に彼は怪訝な顔をする。
「白い髪の毛も、目の色もきれい……まつげまで真っ白なんだ」
初めて見た時と同じく、彼は雪のようだと感じた。肌寒い空気を感じて目覚め、カーテンを開けてはっと息を飲む、街を染め上げる初雪。
新雪に染められる彼の中で、瞳だけは赤だった。血の色がそのまま滲み出ているような、深い赤色だった。
つい夢中になって顔を近づけて、彼を見つめていた。
「お前、誰にでもそうなのか?」
彼の声にはっとして身体を離すと、ため息をつかれた。
「ごめん……そういえば、名前何ていうの?」
「匡次郎 」
「匡次郎、さん」
思っていたよりも渋い名前だ。
確認するように声にして、響きが彼にぴったりだなと思う。
「親切にしてくれてありがとう、匡次郎さん」
お礼を言って、笑顔を向ける。
すると匡次郎は、ふんと鼻を鳴らして、また絵を描き始めた。
しばらくそれを眺めていた。猫の絵。撫でるように優しい筆運び。
見つめているとまぶたが重くなり、ベッドに横たわって、その微睡みに身体を預けた。
数時間後、目を覚ますと窓の向こうは、空が燃えるように赤くなっていた。
もう夜明けかと、上体を起こす。
高層ビルの合間に光が漏れ出し反射して、綺麗な朝焼けだった。
匡次郎も筆を休めて空を眺めていた。
彼の瞳の色を彷彿とさせるような赤だった。
「……俺、もう行かなくちゃ。ありがとう匡次郎さん」
彼の背中に声を掛けると、振り返ることなく「うん」と声だけが帰ってきた。
「もう少し、生きてみる」
あまり眠れたわけでは無かったが、いつもよりずっと気持ちが楽になっていた。
久しぶりに素の自分で居られたような気がする。
朝の白む光の中、ホテルを後にして、すぐ近くのマンションへと歩を進めた。
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