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第9話 約束

しばらく後、スケッチを終えた匡次郎について行き、彼の部屋にまたお邪魔した。 「仕事あるから構えないぞ」  匡次郎はそう言って、律儀にまたボトルの水を差し出した。 「うん……絵、見てもいい?」 「まぁ、いいけど」  匡次郎は上着を脱いでハンガーに掛け、部屋の奥の机にスケッチブックを広げた。  濃い鉛筆で描かれた猫は、どれもこれも魅力的だった。濃淡だけで描かれているとは思えないくらい躍動的で、愛嬌があって可愛らしい。 「すごい……」  思わずぼそっと感想をもらすと、匡次郎はふっと微笑んだ。 「当たり前だ」  その自信からも、腕前からもきっと長いこと絵を描き続けて来たんだろうと思う。  机の上には他にも描きかけの風景画や人物画もあった。中にはマンガのようなイラストタッチのものも混ざっていた。 「これも匡次郎さんが?」 「あぁ、ここにあるものは全部僕が描いたものだ」 「いろんなタッチの絵、かけるんだ……わ、これ、これ好きだなぁ」  かなりデフォルメされた猫の絵。たしか浮世絵かなんかでみたことがある、ゆるいタッチの動物画に似ていた。 「写真取っちゃだめ? スマホの待ち受けにしたい」 「そんなに気に入ったならやるよ」 「え? でもお仕事のなんでしょ?」 「……色味が気に入らなくて描き直すつもりだったんだ、だから、やる」  差し出された絵を受け取って改めてじっくりと見て、優しく胸に抱き寄せて匡次郎を見つめた。 「ありがとう! めっちゃ嬉しい」  単純だから、こんなちょっとしたことで嬉しくなってしまう。もう一度近くで見つめ、離して眺め、るんるんしながらベッドに置いて写真を撮った。そして早速スマホの待ち受けに変えた。 「宝物にするね」  振り返って言うと、匡次郎は呆れたようにでも嬉しそうに微笑んだ。 「勝手にすれば良い。……今日も休んでいくならご自由に」  そう言って、匡次郎は仕事に取り掛かった。  新しい紙を出して、鉛筆を走らせる。  匡次郎の言葉に甘え、ベッドに横たわってそれを見つめていた。  その真剣な姿になんとなく、昔見た映画を思い起こす。 「タイタニックみたことある?」 「あぁ、ある」  匡次郎は振り返ることなく、そう返す。 「ローズがジャックにスケッチしてもらうシーン、好きなんだよね」  子どもながらにそのセクシーな一幕にドキドキしただけじゃない、信頼や愛情やそんなものの象徴のように深く胸に刻まれていた。 「あんなふうに」 「描かない」  匡次郎のはっきりとした声が響く。  それで、あの映画の二人のような関係ではないよなと思い直す。 「仕事ならまだしろ、プライベートで人を描きたくない」  しかし、続けた匡次郎の言葉は思っていたものではなかった。 「そう……なんだ? ごめん」  邪魔そうに長い髪の毛をひとまとめに後ろで結ぶのを眺めながら、そう口にした。  何かしら事情やこだわりがあるのかもしれない。  気が緩んで下手に口を滑らせてしまった。  気分が少し沈んでいく俺を、ぱっと振り返り匡次郎は不快感を示すでもなくいたずらっぽく微笑んだ。 「思わず描きたくなるような人間になったら描いてやるよ」  描きたくなるような。 「うんっ」  きっと今みたいにぼろぼろでいっぱいいっぱいの子どもじゃなく、自分の意思を通せるような大人になったら。  匡次郎は腕まくりして筆をとり、絵の具を溶く。  紙の擦れる音や衣擦れの音、筆を洗う水音が響いていた。  いつの間にか瞼が重くなり、そのまま睡魔に身を任せた。  肩を揺すられ目を覚ますと、匡次郎の美しい赤い瞳と目があう。  外は日が昇ってすぐの白んだ空の色が見えた。  朝だ。現実に戻る時間だ。  深く眠れて身体はだいぶ楽になった。  匡次郎にお礼をして、冷える外に出た。  いつか匡次郎に描きたいと思わせるような人に――。  手の中の匡次郎の絵をもう一度広げると、猫が朝日を浴びて気持ちよさそうに伸びをしていた。

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