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【匡次郎】雪下で咲きたる火の花よ プロローグ

 朝9時。  着信音で目を覚ました。 「おはよ!」  なんとか手探りでスマホを手に取り通話ボタンを押すと、スピーカーから楓季の声がした。 「……おはよう」  声を絞り出すも、気だるくて布団に潜り直した。  数日前、日本に戻ってきたばかりで、まだ時差ボケが抜けない。  加えて、この日の出ている時間というものがどうも苦手なのだ。 「ほら、準備して? 二度寝しちゃだめだからね」  朝から元気な楓季の声を聞き流しながら、寝返りをうって寝ぼけ眼を擦った。  どこかで離れたら関係も離れるものと思っていた。  そういうもので、それでいいと思っていたのに。  電話に、絵葉書まで送るようになって、次はどんなとこに行きどんな絵を描いてみせようなんて、楽しくなっていた。  はぁ、(せつ)さん。僕はきっと死にたくなると思っていたんだ。  あなたと過ごした場所を巡ったら、追いかけたくなるって。  それで良かったんだ。あなたが照らしてくれない世界に興味なんてなかったんだ。 「きょーじろー?」 「んー」  再三名前を呼ばれて、やっと上体を起こし、布団から出た。 「待ち合わせ場所もっかい送っておいたから見てね?」 「あぁ、ありがとう」 「うん! 会うの楽しみ! またあとでね」  楽しそうに弾む彼の声に思わず笑みが溢れる。  ひとつあくびをして伸びをした。  いつもの癖でスマホでニュースを見て、SNSを開く。  楓季のアカウントで投稿された、ネコムンの3人による冬歌のカバー動画を開いて聴きながら準備を始めた。  初めはドラマを追うついでだった。約束したから飽きるまでは動向を追おうと。  けれど、知れば知るほど、アイドルとしての彼に惹かれている自分がいた。  歌もダンスも演技も、努力を重ねているのがよく分かる。根の真面目さが話していると感じられる。それでいて、明るく、気取らずに、少し抜けているところがある。  憐れで可愛そうだと思っていたのが、いつの間にか落ち着きさえ覚えるようになっていた。  手早く準備を済ませ、待ち合わせの駅までタクシーで向かった。  鬱陶しいだけの陽の光も心を弾ませる2月の半ば。  再会した楓季は、隠せない輝きを秘めていた。  メガネにマスクと変装していても、アイドル然とした雰囲気を纏っている。  僕を見つけマスクをずらし笑みを浮かべる彼は、以前の弱々しく傷ついたようなやつれた顔でもなくなり、本来の眩さを取り戻したように見えた。  駅から数分歩き、公園を通り過ぎて美術館へと足を運んだ。  葉の落ちた木々が寒々しく、晴れ間が覗いているとは言え冷たい風が吹き付けていた。  ハットが落ちないように手で抑えながら、隣を歩く楓季の話に耳を傾けた。  絵を飾ってるんだとか、やっぱりあとで教えてとかそんな話題が続いた。 「やっぱり絵描きの役をやるならある程度描けないとと思って練習してるんだ、最近」  ますます人気を増している彼は、多忙だろうに努力を惜しまないところに好感を覚える。  まだ16かそこらとは思えないくらいだ。  美術館には常設展示の他に江戸時代に描かれた絵の企画展もあった。  どうせならと両方見ることにして、企画展の方に足を運んだ。  庶民の芸術と銘打っているだけあって、浮世絵や素朴な南画や禅画などの墨絵が主だった。  楓季は思ったよりもじっくりと鑑賞し、時々可愛らしい動物を絵の中に見つけては僕に指さしてみせた。  僕はそんな彼の横で望郷の念に駆られていた。  綺麗な色使いの浮世絵。中には雪さんが買ってくれたものもある。  もうずっと昔のことなのだと改めて思い知らされる。  こんなにも長く生きているのが嘘のようだ。 「あ、これ綺麗……」  楓季が目をとめた絵に目をやり、はっと息を飲んだ。  その絵に確かに見覚えがあった。  髪を整え着飾った少年の墨絵だ。  こちらを見て微笑む姿は、一見すると少女のような儚さがあり、泰然とした優美さも感じられる。  成熟しきらない身体で大人相手に花を売ることを商売にしていた、いたいけな陰間の姿を描いた絵だった。 「なんで、ここに……」 「どうしたの匡次郎?」  何より見間違えるはずがない。 「これは、僕が描いたものだ」 「え?」  驚くのも不思議ではない。  それは確かに、江戸の世に、今から約200年弱も昔に描いたものなのだから。

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