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【匡次郎】雪下で咲きたる火の花よ 2

「それじゃあ、その人のお陰で絵を始めたんだ?」 「ああ兄さんは本当に綺麗だった……僕の当時の技量じゃ到底描ききれないくらいに。あの絵も随分描き直したものだ」  いつの間にか公園の端まで来ていた。  雲がかかり、かなり冷える。 「僕のせいで早々に出てしまってすまない、せっかくお前が調べてくれた場所なのに」  話しながらやっと気分がましになってきた。  江戸の街で暮らしていた思い出は、もう遥か前のことだった。  だが、あの一枚の絵を見た瞬間に一気に堰を切ったように、頭の奥に押しやられた記憶が溢れ出てきて、とてもではないが耐えられなかった。 「また来れるから大丈夫。それより冷えるし、どこか喫茶店でも行く? 近くにいい場所知ってるんだ」  公園からすぐの駅の裏手に回り、数分歩いた場所にある、昔ながらの喫茶店に二人で入った。  十数席ほどの手狭な店内は、外観からイメージするままのレトロな雰囲気に包まれていた。  昼時を過ぎたのもあり、常連らしい年配の女性が二人いるだけで店内はガラリとしていた。  二人で奥の方のテーブルにつき、僕はブラックコーヒーを楓季はカフェラテを注文した。 「いい雰囲気でしょ? このあたりにおじさんの家があってね、何度か連れてきてもらったことあるんだ」  楓季はマスクを取り、にこやかに店内を見渡した。  いくら傷ついていたとは言え、彼にも普通に家族がいて親類がいて、普通に暮らしてきたのだろうなとぼんやりと考えを巡らせた。  僕には家族というものはよくわからない。  生みの親は僕を気味悪がって捨てたし、育ての親にも売り飛ばされた。  とても楓季を憐れんでいられる境遇でもないのだと、今更思った。  数分後運ばれてきたホットコーヒーを一口飲み、ひとつため息をついた。 「ねぇ、もしも、話したくないならいいけど、話したほうが楽になりそうなら聞くよ」  カップを両手で包み込むようにして持ち、楓季がそう言った。 「僕は……ずっと乗り越えたものだと思っていたんだ」 「うん」 「あの頃、僕は無力で流されるままに生きていた。学も愛嬌もない僕にあるのは人と違う容姿と弱い身体だけだった。ほんの少し絵を覚えたからといって何が変わるわけでもない」  ただ日ごとに見知らぬ男に慰み者にされ、好奇の目で見られる姿を隠して暮らしていた。 「苦しいだけの日が幾日も続いて、心はすっかり麻痺して順応して、空っぽだった。そんな僕を見つけて、救い出そうとしてくれた人にある時、出会った」  楓季は、憐れむでもなくただ真っ直ぐと僕を見つめていた。  穏やかな雰囲気を纏ったまま、時々相槌をして話を聞く姿はどこか彼を思わせた。 「あかほしのようだ」  僕を見て様々言うのを聞いてきたけれど、初めての言葉だった。 「明け方にひときわ輝く星があるんだ」  真面目そうな目をまんまるにしてぱちくりして、続けて言うのがおかしくって、つい笑っていた。  洲雪(しゅうせつ)。  川洲の洲に真っ白な雪で、洲雪と書くらしい。  綺麗な名だと思った。 「日に当たると肌も目も痛い」 「そう、困るね」 「困りゃしない、夜鷹が見るのは月だけよ」  蘭学を習ってる医者だという彼は、日に焼けない肌が青白い、綺麗な男だった。  茶屋の陰間達もかなり整った見た目の者が多かったが、引けを取らないくらいに綺麗な男だった。 「だけどさ、絵を描くんでしょう」 「え?」 「指のここ、たこになってる。それに墨の匂いも」 「……先生」  ひんやりとした手だった。雪の名のよく似合う人だった。  物腰柔らかな一方で、目ざとく、抜け目なく。 「どんなもんか見せてくれよ」  弱いところをひと目で暴いてしまうような人だった。 「ほう、これはいい……きれいだ」  アルビノだからと嫌厭するでもなく、馬鹿にするでもなく。 「きれいだが、困ったな」  まっすぐ僕を見てくれた。  悲しそうな目を向けていた。 「目が弱ったら、絵も描けない」  先生が言ったように、時々、目が見えづらくなる感覚はあった。  まだ困るほどではなかったが、それでもいずれ見えなくなるかもと彼は言った。  来る日も来る日も、抱いて抱かれての繰り返し。  絵を描く時間が唯一、心が安らぐ時間だった。 「先生はあたしを買わない?」  この綺麗な男なら、慰めにもなるだろうかと、なんとなく思った。  だけど意外にも頬を染めて、困った風で。 「きれいすぎて抱けないよ、壊してしまいそうだ」 「壊したってかまやしない」  その冷たい手に触れて、頬にあてがう。  物怪の僕にきれいだなんて、こんな目を向けるなんて……そんな人もいるもんだな。  西日の光に目をしかめると、抱き寄せられた。 「先生……」 「おかしなことを言ってもいいかい」  その胸に身体を預けながら頷いた。 「君を、おれのものにしたい」  少し掠れた声が心地よかった。 「君の好きなように好きなことをさせて、それをずっとずっと眺めていたい」  大袈裟な言葉がかゆいくらいで。 「絵が描きたい」  だけど、身を任せたらどうなるのか胸が高鳴って。 「好きなだけ描くと良い、嫌になるまでずっと」  大事にするように抱き寄せられるのがくすぐったくて。 「その、言葉だけで嬉しい」  だけど、無理なことはわかっていた。  そっと唇を重ねて、離れては重ねて、続きの言葉を聞きたくなくて、何度も何度も繰り返した。 「……っ」  僕を組み敷いて、息を整える彼の頬が夕日に染まり赤い。 「おれが金はどうにかする。だから家に養子にでも入れば良い、そんで画塾から先生をとって絵を習って……そんなのは困るかい」  真剣な顔をするものだから、本気にしてしまいそうになる。 「困る」  彼の胸に手をついて続けた。 「物怪のあたしといるだけで白い目でみられるよ。あんたがかたをもつお金に見合うだけ生きられるかもわからない……。それに先生もいったじゃない、この目が見えなくなるって……そんな面倒まで掛けられない。それで、それでまた捨てられたら……」  生みの親に捨てられ、育ての親に売られ、売られた先でもまた売られ。  人を信じる心なんてとうの昔に尽きていた。 「おれは」  彼の言葉を塞ぐようにその薄い唇に指を添える。 「さ、もうお帰りの時間だよ先生。診てくれてありがとう」  にっこりと微笑んで見せる。  彼の心を突き放すように。 「これで今夜もお客を取れる」  微笑みながら、彼の熱い眼差しを気付かないふりをして。

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