32 / 54
【匡次郎】雪下で咲きたる火の花よ 2
「それじゃあ、その人のお陰で絵を始めたんだ?」
「ああ兄さんは本当に綺麗だった……僕の当時の技量じゃ到底描ききれないくらいに。あの絵も随分描き直したものだ」
いつの間にか公園の端まで来ていた。
雲がかかり、かなり冷える。
「僕のせいで早々に出てしまってすまない、せっかくお前が調べてくれた場所なのに」
話しながらやっと気分がましになってきた。
江戸の街で暮らしていた思い出は、もう遥か前のことだった。
だが、あの一枚の絵を見た瞬間に一気に堰を切ったように、頭の奥に押しやられた記憶が溢れ出てきて、とてもではないが耐えられなかった。
「また来れるから大丈夫。それより冷えるし、どこか喫茶店でも行く? 近くにいい場所知ってるんだ」
公園からすぐの駅の裏手に回り、数分歩いた場所にある、昔ながらの喫茶店に二人で入った。
十数席ほどの手狭な店内は、外観からイメージするままのレトロな雰囲気に包まれていた。
昼時を過ぎたのもあり、常連らしい年配の女性が二人いるだけで店内はガラリとしていた。
二人で奥の方のテーブルにつき、僕はブラックコーヒーを楓季はカフェラテを注文した。
「いい雰囲気でしょ? このあたりにおじさんの家があってね、何度か連れてきてもらったことあるんだ」
楓季はマスクを取り、にこやかに店内を見渡した。
いくら傷ついていたとは言え、彼にも普通に家族がいて親類がいて、普通に暮らしてきたのだろうなとぼんやりと考えを巡らせた。
僕には家族というものはよくわからない。
生みの親は僕を気味悪がって捨てたし、育ての親にも売り飛ばされた。
とても楓季を憐れんでいられる境遇でもないのだと、今更思った。
数分後運ばれてきたホットコーヒーを一口飲み、ひとつため息をついた。
「ねぇ、もしも、話したくないならいいけど、話したほうが楽になりそうなら聞くよ」
カップを両手で包み込むようにして持ち、楓季がそう言った。
「僕は……ずっと乗り越えたものだと思っていたんだ」
「うん」
「あの頃、僕は無力で流されるままに生きていた。学も愛嬌もない僕にあるのは人と違う容姿と弱い身体だけだった。ほんの少し絵を覚えたからといって何が変わるわけでもない」
ただ日ごとに見知らぬ男に慰み者にされ、好奇の目で見られる姿を隠して暮らしていた。
「苦しいだけの日が幾日も続いて、心はすっかり麻痺して順応して、空っぽだった。そんな僕を見つけて、救い出そうとしてくれた人にある時、出会った」
楓季は、憐れむでもなくただ真っ直ぐと僕を見つめていた。
穏やかな雰囲気を纏ったまま、時々相槌をして話を聞く姿はどこか彼を思わせた。
「あかほしのようだ」
僕を見て様々言うのを聞いてきたけれど、初めての言葉だった。
「明け方にひときわ輝く星があるんだ」
真面目そうな目をまんまるにしてぱちくりして、続けて言うのがおかしくって、つい笑っていた。
洲雪 。
川洲の洲に真っ白な雪で、洲雪と書くらしい。
綺麗な名だと思った。
「日に当たると肌も目も痛い」
「そう、困るね」
「困りゃしない、夜鷹が見るのは月だけよ」
蘭学を習ってる医者だという彼は、日に焼けない肌が青白い、綺麗な男だった。
茶屋の陰間達もかなり整った見た目の者が多かったが、引けを取らないくらいに綺麗な男だった。
「だけどさ、絵を描くんでしょう」
「え?」
「指のここ、たこになってる。それに墨の匂いも」
「……先生」
ひんやりとした手だった。雪の名のよく似合う人だった。
物腰柔らかな一方で、目ざとく、抜け目なく。
「どんなもんか見せてくれよ」
弱いところをひと目で暴いてしまうような人だった。
「ほう、これはいい……きれいだ」
アルビノだからと嫌厭するでもなく、馬鹿にするでもなく。
「きれいだが、困ったな」
まっすぐ僕を見てくれた。
悲しそうな目を向けていた。
「目が弱ったら、絵も描けない」
先生が言ったように、時々、目が見えづらくなる感覚はあった。
まだ困るほどではなかったが、それでもいずれ見えなくなるかもと彼は言った。
来る日も来る日も、抱いて抱かれての繰り返し。
絵を描く時間が唯一、心が安らぐ時間だった。
「先生はあたしを買わない?」
この綺麗な男なら、慰めにもなるだろうかと、なんとなく思った。
だけど意外にも頬を染めて、困った風で。
「きれいすぎて抱けないよ、壊してしまいそうだ」
「壊したってかまやしない」
その冷たい手に触れて、頬にあてがう。
物怪の僕にきれいだなんて、こんな目を向けるなんて……そんな人もいるもんだな。
西日の光に目をしかめると、抱き寄せられた。
「先生……」
「おかしなことを言ってもいいかい」
その胸に身体を預けながら頷いた。
「君を、おれのものにしたい」
少し掠れた声が心地よかった。
「君の好きなように好きなことをさせて、それをずっとずっと眺めていたい」
大袈裟な言葉がかゆいくらいで。
「絵が描きたい」
だけど、身を任せたらどうなるのか胸が高鳴って。
「好きなだけ描くと良い、嫌になるまでずっと」
大事にするように抱き寄せられるのがくすぐったくて。
「その、言葉だけで嬉しい」
だけど、無理なことはわかっていた。
そっと唇を重ねて、離れては重ねて、続きの言葉を聞きたくなくて、何度も何度も繰り返した。
「……っ」
僕を組み敷いて、息を整える彼の頬が夕日に染まり赤い。
「おれが金はどうにかする。だから家に養子にでも入れば良い、そんで画塾から先生をとって絵を習って……そんなのは困るかい」
真剣な顔をするものだから、本気にしてしまいそうになる。
「困る」
彼の胸に手をついて続けた。
「物怪のあたしといるだけで白い目でみられるよ。あんたがかたをもつお金に見合うだけ生きられるかもわからない……。それに先生もいったじゃない、この目が見えなくなるって……そんな面倒まで掛けられない。それで、それでまた捨てられたら……」
生みの親に捨てられ、育ての親に売られ、売られた先でもまた売られ。
人を信じる心なんてとうの昔に尽きていた。
「おれは」
彼の言葉を塞ぐようにその薄い唇に指を添える。
「さ、もうお帰りの時間だよ先生。診てくれてありがとう」
にっこりと微笑んで見せる。
彼の心を突き放すように。
「これで今夜もお客を取れる」
微笑みながら、彼の熱い眼差しを気付かないふりをして。
ともだちにシェアしよう!

