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【匡次郎】雪下で咲きたる火の花よ 4

 それからの生活は夢見心地だった。  なんにも我慢しなくていいなんて不思議で仕方なかった。  もうこの身を見世物にすることも、見ず知らずの人と一夜を過ごさなくてもいい。  僕は、洲雪先生の父であるという、豪商として名を馳せる幸慈(ゆきじ)の養子になり、匡次郎という名をもらった。  彼らは何もなかった僕に少しずつ人間らしさをくれた。  不自由のない生活に戸惑いながらも、なによりも、隣に居る彼に強く惹かれていった。 「お匡」  彼の声で名前を呼ばれるのがくすぐったくて叶わなかった。 「ほら、これ……見たがってただろう北斎の絵」 「こんなに」  何気なく話題に出しただけだったのに、覚えていたのかと困惑する。  たくさんの浮世絵たちに胸が高鳴りつつも、少し怖くなった。 「他にも綺麗なの、選んで見たんだが」  なんでもなさそうに彼は笑う。 「……あ、ありがとう」  言いつつも、僕は素直に喜びきれないでいた。 「他にも欲しいものがあれば」 「ない……ほしいもの、ない」  雪さんが笑顔を引っ込めて、心配そうに俺を覗き込む。 「どうした? なんでも、匡が欲しいものなら何でも用意するよ」 「いい。……いらない」  慣れない優しさに募るのは嬉しさよりも怖さだった。  困ったように眉をハの字にする雪さん。  「……前も話したが、君が好きなものを好きでいてくれたらそれで満足なんだ、おれは」  そんな言葉、もったいなさすぎるんだ。  物怪のあたしには。 「……こわいんだ」 「こわい?」 「何も見返りを求められないのも、与えられることも……幸せ、なのも」  そう言うと、雪さんは優しく微笑んだ。 「幸せかい?」  こくんと頷く。  すると、彼はにっこりと微笑む。頬にえくぼが出来る。 「匡が幸せなことが、おれは幸せだよ」  同仕様もなく純で無垢で、優しく、温かい人だった。  彼から文字を習い、簡単な和算なども教わった。  また、彼の計らいで画塾の先生が時々家を訪ねて絵を見てくれた。  僕は一層、絵に打ち込んだ。  明るいうちから描き始め、日が落ちてからも行灯の明かりを頼りに描いた。  雪さんはそれを眺めて、満足そうにしていた。 「そんでね、先生が話をつけて今度本にね、絵を載せないかって」  墨で汚れた手を洗ってもらいながら、絵のことばかり話していた。 「そりゃすごい」  こんなどうしようもない僕を彼は受け入れてくれていた。  穏やかに笑う顔が好きだった。  こんな笑顔を僕に向けてくれる人なんていなかったから。 「ほら、頬にも墨が跳ねてる」  濡れた手ぬぐいで優しく拭う雪さん。  その手に身を預ける。 「ねぇ、雪さんは僕を抱けない?」  ずっと気になっていたことをつい話してしまった。  引き取ってもらってから半年以上が過ぎても、未だに口づけをするだけで肌を重ねることはなかった。 「抱いて欲しい?」  くすりと笑う彼に頬が熱くなった。 「別に。雪さんがいらないならいいけど。僕ができることはそれくらいでしょ」  相変わらず、いろんなものを与えてくれる雪さん。  寝床や食事だけでなく、学も夢も与えてくれる。 「そんなにおれのために何かしたい?」  雪さんの笑うたびに出来るえくぼが好きだった。  こちらまで笑顔になるような穏やかな表情に心が和む。  手を伸ばして頬に触れ、そこにそっと唇を寄せる。 「あんたが喜ぶなら、なんでもしたい」  そう言いながらも、彼を求めているのは僕の方だった。  頬に首に口づけを落としながら、襟に手をかけするりと自分の肩から落とす。  両手で頬を覆い唇に口づけする。 「お匡……」  彼の手が肌に触れた。  ひんやりとした指先が火照った身体をなぞる。  彼が僕の張り詰める熱を蕩かすように指を動かした。 「雪さん……あっ」  壊れ物を扱うような優しい触れ合いに胸がいっぱいになった。  それまで知らなかった。  仕事だからしていただけで、苦しみの方が強かったから。  こんなにも大事にされる抱き方なんて知らなかった。  怖くなるほどに雪さんの隣は居心地がよかった。  いつかつけが回ってくるのではと、怖くなるほどに――。

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