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【匡次郎】雪下で咲きたる火の花よ 5

 生活に馴染み、あれほど遠かった幸せにすら慣れ始めた頃。  僕は絵に明け暮れる日々を過ごしていた。  絵の師匠が出来、習いながら作品を仕上げていった。  もっぱら肉筆で描くのが好きだった。  描くのは大抵、花や木や動物、風景画が多かった。  仕事をもらい人を描くことも何度かあったが、進んで描きたいとはやはり思えずにいた。 「まだ絵をやってたのか」 「うん。雪さん、おかえりなさい」  絵を描くことに没頭し、相変わらず、行灯の小さな明かりを頼りに日が落ちてからも筆を取っていた。  雪さんは何も言わなかったけれど、幸慈さんや女中達には呆れられるほどだった。  朝起きてから夜寝るまで、筆を取り紙の前にいるような生活だった。 「ただいま、お匡」  揺らめく炎の淡い光が夜闇の中に青白く雪さんの顔を浮かび上がらせていた。 「近頃は帰りが遅いね」 「先生方と一杯やってきたんだ」  医者として働く雪さんはよい腕を買われ、庶民だけでなく武家も診ていた。  僕と違って人のために働く彼を尊敬していた。  隣に来て座る彼の胸に身体を預けると確かに酒の匂いがした。それに加え、鉄臭い血の匂いも微かに混じっていた。 「匡の絵を本で見たってさ、褒めていたよ」 「そう? うれしい」 「けど、あまり気張りすぎると身体に障るからね」 「うん」  穏やかな声を聞いていると、瞼が重くなりそのまま彼に身を委ねて、いつの間にか眠っていた。  まだ夜のうちに目が覚めてしまい、布団から這い出る。  障子を開けると空に月が見える。  じわりと滲むようにぼやける月。  気付かないふりをしようとしていたけれど、僕の目は徐々に悪くなっていた。  焦りから一層、絵に没頭するようになった。  次の朝も紙の前で筆を握り、ひたすらに描き続けた。  雪さんのもとにきて数年が経った。  何事もなく平穏な日々が流れていた。  1日中、絵に暮れる日々は続いていたが、時々、天気のあまり良くない日には外に出てみることもあった。  近所の人々は、初めは僕の姿を見て噂を立てていたが、数年たてば興味も失ったようだった。  友が出来るでもなく、交流があるのは、雪さんと幸慈さんに女中と絵の師匠くらいのものだった。 「さぁ、こっちだ」  ある年の初夏の夜。  家の近所の丘に登って、遠くに上がる花火を二人で見た。 「患者から聞いたんだ、穴場だってね」  思うように外出もできず、おまけに人混みの苦手な僕を気遣ってのことだった。  遠くの夜空にうかぶ光のちかちかとした瞬きはぼやけていた。  それでも綺麗だった。 「雪さん、ありがとう……」  雪さんは目を細めて僕を見た。  柔らかな微笑みも、その優しさも大好きだった。  なによりどんなときでも僕を気遣ってくれるところが愛おしかった。  何にもなくて、ただ過ぎる日々を流されるままに生きていただけの日々が遠くなる。  辛いだけの過去が幸せで塗りつぶされていく。  今ここにいても良いのだと、愛されているのだと、改めて思えた気がした夜だった。

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