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【匡次郎】雪下で咲きたる火の花よ 6
月日が流れ、僕は数えで20歳ほどになった。
狭い世界でただ筆をとる日々。
その頃には、また幾分目も悪くなっていた。
いずれ見えなくなる。
そう思うと、いても立ってもいられなかった。
雪さんは、相変わらず医者を続け、時々ふらりと何処かに出かけては夜が暮れてから家に帰った。
数年の年月を感じさせず、出会った頃のままの美しい彼を見ていると時々不安に駆られた。
いくら口で綺麗と言われても、僕の身体は雪さんと違わぬ大人の男になってしまった。
引き取られた当初の少年の柔らかさや危うさなど、なくなってしまっていた。
満足に日の下にもいられず、人混みに行けば、目立つ白い肌や髪は好奇の目に晒される。
このまま目が不自由になれば、稼ぎもなくただ迷惑をかけるだけの存在になる。
ほんの数年じゃ、それまでの経験や思考がまるっきり変わることなんてできない。
いずれ僕は捨てられるんだと、そう不安がつきまとった。
彼がどこの誰と何をしていようが、恩義のある彼を咎めることも責めることも筋違いだとわかっていた。
だが日毎に不安は大きくなり、そんな気持ちを誤魔化すようにただ絵に耽った。
「雪さんおかえり」
「ただいま匡」
ある夜、やや疲れた様子で雪さんは家に戻った。
武家の娘の容態が芳しく無く、数日つきっきりで看病に明け暮れていたのだった。
こうも何日も家を空けることはそれまで無く、寂しさからつい彼の手を引いていた。
「先生、僕も看ておくれよ」
「ふふ、お匡……さ、こちらへおいで」
行灯のそばに寄り、向かい合って座った。
彼の大きな手が僕に向けられて、緩んだ襟を掴み、そっと肩から引き落とされた。
素肌にひんやりとした雪さんの手が触れて、びくりと身体が跳ねる。
「痛いところはないかい」
「うん……」
胸や背中をゆっくりと触診され、時々くすぐったくて身を捩ると雪さんまでくすりと笑った。
「よしよし、偉いね? お匡」
子どもをあやすような口調で言われ、僕まで笑ってしまう。
「先生、そんな子ども扱いはやめてよ。僕はもう二十歳だし、背だって雪さんより大きいくらいじゃないか」
「それでも、こうして無事でいてくれて偉いよ」
頭を撫でられて顔が熱くなった。
雪さんになら、こうされるのも全然悪い気がしない。
「だけど、……目はあんまりよくないんだろう?」
頭を撫でていた指先が、頬に触れ、顎を持ち上げる。
行灯の明かりが揺れ、雪さんの色の白い顔がずいと近づいた。
以前よりもずっとぼやけて見えるが、真剣な表情をしているのがわかる。
「……そんなことない、見えているよ」
思わずそう口にしていた。
とてもじゃないが見えにくくなっているだなんて言えない。
言いたくなかった。
言ったらそれが現実だと受け入れることのようで怖かった。
「匡は嘘が下手だねぇ」
雪さんは笑っていた。それが呆れてなのか、寂しそうになのかはわからない。
「見ていればわかるよ、目を細めるの癖になってる。それに、なにより絵を描くときに紙に近づいて描くようになっているだろ?」
どんな顔をしたらいいのかわからなかった。
ただ、隠しておきたかった。
もしこのまま目が見えなくなったら、こんなにも優しい雪さんに一層苦労を掛けることになる。絵だってもう描けなくなる。
そんな日が一日でも遅くなるように、気付かないふりを続けていたかった。
「火花散らし、灯火消えんとして光を増す。しかし、いくら花があってもやるせないじゃないか……」
ぼそりと、雪さんはそう呟いた。
「なぁ、匡は絵が好きかい?」
「うん……これしか僕にはない」
「そう」
「もし、目が見えなくなったら、そしたら雪さんは……」
僕を捨てる?
なんて、恐ろしくてとても口にできなかった。
言葉にしたらそれが本当になってしまうようで怖かった。
「一生絵を描けるかわりに、人より長く生きなきゃいけないか、目は見えなくなっても天寿を全うするか……選べるなら匡はどうしたい?」
「そんなの聞くまでも無いだろう」
雪さんにしては、やけに空想じみた質問だった。
「僕には絵しかない、描けなくなったら死んだも同じだ」
はっきりとそう言うと、雪さんは僕の手を握りながら続けた。
「お匡……こんな鬼の話は聞いたことあるかい? 人の生き血を吸い、老いず死なず、美しい見た目をした、長い長い命を持つという鬼さ。日に当たると白い肌が焼けちまうが、それ以外に殺す手立てはないという」
物怪や鬼の類の話なら散々聞いてきた。
「どうしたのさ雪さん」
いつもならこんな話、したりしないのに。
僕が物怪と言われている事を彼も知っているはずなのに。
「もしおれがその鬼で、匡のことも鬼に変えられるとしたら」
「……」
雪さんの声は妙に真剣で、まるでその話が本当なのだとでも言うようだった。
「一生の命は辛いかもしれないけれど、絵を描き続けられるんだ」
ぎゅっと握る手が微かに震えている。
「目が見えなくなる前に、おれと一緒になろう」
震えた手をそっと包み込むようにして握りしめた。
「おれと一緒にって、それじゃあ意味が変わってくるよ」
「……おれはお匡が嫌じゃないなら、どれだけでも側にいたいよ」
「ふふ……まじめになにを話すかと思ったらさ」
「匡」
「てっきり絵に狂いすぎて愛想をつかされたのかと思ったじゃないか」
「そんなわけあるか。お匡が絵狂いならおれは匡狂いだよ」
もしも不幸の分だけ幸せが訪れるとしたら。
ずっとずっと苦しいだけの日々も、蔑まれて恐れられるだけの見た目も、全部これで良かったのだと思える。
「鬼にしておくれよ。僕もあんたと一緒になりたい」
鬼になれるかどうかよりもずっと、ただ雪さんの言葉が嬉しくて嬉しくて仕方なかった。
涙のせいでぼやけた視界の中でも、きっとあなたは綺麗な顔で、頬にえくぼを浮かばせて微笑んでいたんでしょう。
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