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In the Mirror

 志津真に遅れて威軍が部屋に戻ると、おかしなことに恋人の姿が無い。 (自室に戻った、とか?)  考えながらネクタイを外し、バスルームの方へ向かうと、中から水音が聞こえる。思わず威軍の美貌が緩んだ。  よく見ると、ソファーの背に、先ほどまで志津真が着ていたスーツの上下が掛けてある。ワイシャツと下着と靴下はバスルームの前に投げ捨てられていた。 (そんなに慌てなくても…)  志津真の気合を想像して、威軍は苦笑が禁じ得ない。それほどに自分を求めているのだと思うと、威軍の鼓動も早くなる。  ふと気になって、威軍は恋人が脱ぎ散らかした物を拾い上げ、続き部屋になった隣へと足を踏み入れた。  ちょうど今までいた自分の部屋と左右対称になった部屋だった。一瞬、鏡の中に入ったような妙な錯覚に襲われる。 「え?」  その時、何故か志津真の部屋のバスルームから水音がした。シャワーが流れ落ちる音で、それが威軍の部屋から聞こえてくるのかと思ったが、キュッと栓を捻ひねる音に、それが間違いなく威軍が今いる部屋からだと確信した。 「?郎主任?」  バスルームから現れたのは、間違いなく加瀬志津真だった。まさかバスルームまでもが繋がっているのかと、威軍は驚いて言葉が出ない。 「何をしているんだ、郎主任?」  怪訝そうな志津真の声に、ようやく我に返った威軍は恋人に対して薄い笑みを浮かべた。 「志津真…」 「は?」  腰にホテルのバスタオルを巻いただけで現れた志津真に、威軍は頬が熱くなる。日本では細マッチョと言うらしいが、着痩せするタイプだが、志津真の体はかなりガッチリしている。  エリートの志津真は、上海で自身が暮らす服務式公寓(サービスアパートメント)内にあるジムに定期的に通っており、ウェイトコントロールをし、引き締まった腹筋を持っていて、それが年齢の割りに若々しく、セクシーで、威軍がいくつも挙げる恋人の美点の1つだ。  あのカラダに触れることが許されるのは自分だけ…。そんな優越感を覚える威軍に、志津真が冷ややかな言葉を浴びせた。 「郎主任が、上司をファーストネームで呼ぶとは意外だが、個人的には不愉快だ」  眉間に皺を寄せ、胡乱(うろん)な目つきで威軍を見詰め、怒りさえ感じさせる低い声でそう言った。 「なんの冗談ですか、志津真?」  思わぬ志津真の態度に、戸惑いながら威軍は恋人に近付く。  その様子を、苦々しい表情で見詰め、志津真は冷淡に一歩下がった。その行為に威軍は戦慄して足を止めた。確かに、志津真は威軍を拒絶しているのだ。 「なぜ君がこの部屋に?」  迷惑そうに言われて、威軍は志津真の目をじっと見返す。いつもの冗談だと言ってくれるのを期待しながら。 「君の部屋は隣だろう。どうやって、ここへ来たんだ」  気が付くと志津真は、いつもの柔らかい関西弁を使っていなかった。まるで互いの間に壁を作るかのように他人行儀な口調だった。 「ドアが、開いていて…」  豹変した恋人の様子が信じられずに、虚ろな声で威軍は素直に答えた。 「……」  憮然としてコネクトのドアを横目で見て、志津真は顔を歪め、小さくチッと舌を鳴らした。こんな横柄な志津真を、威軍は見たことが無かった。 「志津真…どうして…」  もう一度、恋人に手を伸ばした威軍に、志津真はさらに不機嫌な表情になった。 「どういうつもりか知らないが、馴れ馴れしく名前を呼ばないでくれ。コネクトドアが開いていたのは悪かった。すぐに鍵を掛けるから、今すぐ出て行ってくれ」  冷たく突き放され、威軍は愕然として、そのまま動けなくなった。  その時、廊下側のドアがノックされた。  イライラを隠そうとはせず、それでも志津真は威軍を無視して、ドアの方へ向かった。腰にタオルを巻いただけの姿で、育ちの良い志津真がドアを開けるなど成り得ない。ドアの向こうに居るのが、恋人でもない限り。 「遅かったなぁ」  ドアが開いた音がした。そして志津真の声が聞こえた。そこに威軍が聞きなれた関西訛が感じられる。今の自分とは違い、志津真が心を開いている誰かがそこに居るのだ、と威軍は感じた。 「遅くなって、すみません」  その声に、威軍はハッとする。声の主に覚えがあったのだ。 「残業の後、急いで飛んできたのに…」  そう言いながら、志津真に肩を抱かれて入ってきたのは、営業部第3班の川村志延(かわむら・しのぶ)だった。 「え?どういうこと?」  茫然とコネクトドアの前で佇む郎威軍の姿を認め思わず声を上げ、川村は志津真の顔を振り返る。それが恋人を見る眼差しであることに、威軍は傷つく。 「たまたま、そこのドアが開いてたから、間違って入って来ただけや。志延は気にせんでええ」  自分の恋人が、他人をファーストネームで呼んだことに威軍はショックを受ける。しかも優しい関西訛で、「声優部長」ともてはやされるほどの甘く、柔らかな声で、愛し気に囁くのだ。 「今、出て行くところやから、志延は心配せんと、こっちへおいで」  そう言うと志津真は、威軍の目の前で川村を抱き寄せ、見せつけるようにキスをした。 「イヤです!」  気が付くと威軍は飛び出し、抱き合う志津真と川村を力づくで引き剥がした。 「志津真は…、この人は私の恋人です!触らないで下さい」  いつもの「人造人」と呼ばれるほど、冷静で正確無比な郎威軍とは思えない動揺ぶりだった。 「ふざけるな!」  だが信じられないことに、志津真は威軍を振り払い、川村志延を守るように引き寄せたのだった。

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