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十話※ ほろ苦い夢

 一階から物音が聞こえた。やっと佐久良が帰って来たのだ。  期待に顔を上げれば、姿見に映った自分と目が合う。  和室に敷かれた、淡いピンク色でふかふかのマット。  その上に四つん這いになった由利。  上半身は革の首輪と、細いベルトが首から胸、腹筋へと下りていき、肩からも背中に回り込んで胴を前後から締め付けるハーネスのみ。  首輪に付いたリードの先は、敢えてどこにも結ばれていない。  突き出した腰には紐のような下着の上から品の無い光沢を放つ黒エナメルのガーターベルトが纏わり付いており、長い責め苦で蒸れたニーハイストッキングを留めている。  背中には水を湛えたグラスが一つ乗っている。  水を溢すなという命令が与える緊張感と、ひんやりとした底が皮膚の感覚を狂わせ、手中に収まる程度のグラスが巨大な氷塊のように感じられる。  由利の痩躯では、少し気を抜くだけでも背骨が浮き出て傾斜を作ってしまうので、迂闊に息も出来ない。  呼吸さえ彼に操られてしまっている。  しかし、階段を上る足音と共に、この苦しい時間の終わりが見えてきた。  どんどん足音は近付いてきて、さらりと硝子障子が開け放たれる。  胡蝶と雛芥子が鏤められた着物姿の佐久良が現れて、由利を見下ろした。 「ただいま」  おかえり、と喉まで出掛かったのを由利は呑み込む。 「……わん」  由利が一つ犬の鳴き真似を返すと、佐久良は頷いて屈んできた。 「溢してへんな。Goodboy(良い子)、由利」  そう言って、やっと由利の背中からグラスを退けてくれた。  水を溢すな、という命令からは解放されたものの、許可無く体勢を変えてはならないので依然として四つん這いのままだ。 「Sit(お座り)、Hand(お手)」  コマンドを受けてその場に割座し、佐久良が差し出す掌に軽く握った拳を乗せる。  ただでさえ由利より佐久良の方が 一〇センチ以上長身で、見上げてばかりなのに、由利が佐久良の犬になることで二人の目線は更に高低差が開いている。  遥か上方にある伏し目に痴態を射抜かれるだけで、脳天から爪先まで陶酔に眩む。 「よう躾の出来た犬やな。  今度由利が芸しとるとこ撮影して、皆に自慢したりたいんやけど」 「んん……!」  意地の悪い提案に由利が必死で頭を振ると、佐久良は真顔で続けた。 「冗談。番の可愛い姿は独り占めしたい派やから。……おいで」  コマンドではなく普通に呼ばれ、久方ぶりに立ち上がると、共に窓辺の籐椅子に座って向かい合う。 「撮影は冗談とちゃうんか」  犬から率川由利に戻って軽口を叩くと、佐久良ははぐらかすように片眉を上げた。  先程までの淫靡な空気が晴れて、開いた窓からは和やかな風が流れてくる。  提げていた巾着から佐久良は小箱を取り出した。 「アフターケアにあげるおやつが無かったから、買うて来た」  小箱の中身はチョコレート菓子だった。  細い指が菓子を一つ摘まみ上げ、由利の口許に差し出してくる。  佐久良の指に唇が触れるのも構わず、チョコレートを腔内に迎え入れる。  奥歯で一噛みすると中からウイスキーが溢れ出し、アルコールの香りと共にアフターケアの充足感も広がっていく。  理不尽な命令を熟した後に与えられるご褒美、更にその先に待ち受けている命令――その落差が堪らなく好きだ。 「美味しい」 「良かった」  佐久良は静かに由利を見つめてくる。  しかし、これで良いのだろうか。  こんな可愛げの無い自分が、佐久良の戦友ではなく番として隣に居て。由利は面伏せる。  自分に愛情を繋ぎ留めておけるような魅力なんて無い。  愛し合うメリットだって無い。  待ち受けるのは破綻と弱さ。  もっと、もっと強い率川由利で在りたい。  こんな距離感は間違っている。  顔を上げると、二人を隔てている机の上にはいつの間にか銀色の光が散らばっていた。  それは粉々に砕けた、清けし雪村の刀身であった。  今日の修練を終えた子ども達が、由利達に手を振り、はしゃぎながら道場から散り散りになっていく。  鍛錬に集中している間は忘れられていた悪夢が頭を過り、つい喚き散らしたくなるが、皆の前では平静を保つ。  道具を片付けようとすると、道場の隅にぽつんと立っている少女と目が合った。  猫耳のよような形に整えたハーフアップの髪にリボンを結び、肩出しのロングTシャツと、黒いチュールで膨らませたチェック柄のミニスカートという、八歳の子どもにしては大人びた格好の子だ。 「どないしたん、筑紫(つくし)ちゃん」  由利が呼び掛けると、筑紫はそろそろと寄って来た。 「聞いてほしいことがあんねんけど」 「良えよ。どっかその辺座ろか」  すると筑紫は道場の前庭に置かれた石の長椅子を指した。  片付けを栗栖と夏目に任せ、由利は筑紫と庭に出る。  筑紫はよく難しい顔をしている子だが、今は取り分け深刻な面持ちに見える。  長椅子にハンカチを敷いてやり、並んで掛けると、筑紫は早速喋りだした。 「実はな、グレアが弱くなってしもてん」  筑紫は新人類で、ダイナミクスはDomだ。  刀を振るうのも、グレアを鍛えるのも楽しいらしく、彼女にとって最も身近な新人類である由利によく懐いてくれている。  今もきっと、真っ先に由利を頼ったに違いない。    Domは、グレアという無二の特性を鍛えることにアイデンティティを見出す者が多い。  本能に苦しみ、暗い歴史を持つが、その性質を戦いで役立てることで溜飲を下げ、生きる誇りを再確認する。  筑紫も例外ではなかった。  そんな彼女のグレアが弱くなったというのだから、不安で仕方ないことだろう。 「グレアが弱くなる原因……体調が悪いとか、悩みごとがあるとか?」  由利の問いに、筑紫は頭を振る。 「そんなんやないねん。  大体、ちょっと調子悪くてもせいぜい持続時間が何秒か短くなって、効果範囲が狭なるだけやん。  せやのうて、ほんまにちょろっとしか出えへんの! 初めてグレア出した時の方が威力あったくらいや」  眉根を寄せながら力説するのを聞きながら、考え得る原因を懸命に手繰る。  そして一つの可能性に思い至った。 「今から俺がグレアを出すから、筑紫ちゃんは地脈を読むのと似た要領で、俺のグレアに意識を集中させてみて」  そう言って由利は、ごく軽いグレアを発動する。  筑紫は握り締めた拳を膝の上に置いて白銀の光を不安げに睨んでいたが、次第にその瞳孔は拡大し、呼気はグレアの揺らめきに重なっていく。  突如、由利のグレアは輝きを増した。  筑紫はびくっと肩を震わせて仰け反る。 「嘘やろ……私が、由利兄ちゃんにバフ掛けたってこと?」  聡い少女は、それだけで全てを察したようだった。 「サプレッサーを飲む前に気付けて良かった」  由利は、それだけをぽつりと呟いた。  Switchとして生きるのは決して楽ではない。  欲を薬で抑えることが出来ず、望まずとも湧き上がってくる番への渇望に向き合わなくてはならない時が必ず訪れる。  筑紫はまだ幼いので欲求を感じたことは無く、グレアやバフといった形でしか新人類の証は現れていないが、いずれ誰かを支配したくなり、誰かに支配されたくなる。 「また前みたいにグレア使えるようになるかな」 「ああ。初めてダイナミクスがSubに傾いたから切り替えが上手くいってへんだけや。  すぐに安定して感覚を掴めると思うし、そしたら自由にDomにもSubにもなれる」 「やったら良かった」  筑紫は肩を撫で下ろしたが、すぐに新たな懸念が生まれたようで、はっとした顔で由利を見上げる。 「由利兄ちゃんって番居らへんやんな。  サプレッサー飲まれへんのに、欲求強なったらどないしてんの?」 「俺のDom性は保護の指向やから、周りに世話焼いとるだけで自然と満たされる。  Sub性は被虐やから、機械で電気ショック受けて満たしとるよ」  答えてやると、筑紫の表情は引き攣る。 「で、電気……?」 「あ、いや、そんな怖がらんでも。  痛い言うても知れとるし」  慌てて宥めようとするが、電気ショックと聞いて筑紫はすっかり怯えている。  しかしこれ以外に答えようなんて無い、と由利は首を捻る。 「もし被虐のSubやったら、自然に欲求を散らす方法って無いん?」 「え、えっと……」 『Sit、Hand』 『番の可愛い姿は独り占めしたい派やから』  頭の中に、静かな低音が甦る。  今朝もまた佐久良を夢に見てしまった。  思わず腰に差した清けし雪村の鯉口を切る。  刀身が砕けたのは夢に過ぎないのだが、縁起が悪いにも程がある。  打ち据えられたり犬のように扱われたりする夢を脳が勝手に造り出して欲を発散させている、なんて情けなくてとても説明出来ない。  そもそも、連日の悪夢は抑圧された本能の仕業だという因果関係自体、由利の推測に過ぎない。  由利程に溜め込む者も居ないせいか、新人類は欲求不満に陥ると夢の世界でそれを解消しようとします、だなんて生態は聞いたこともない。  これが新人類の生態ではなく由利個人に由来する現象であった場合、自分は意味も無く戦友の淫夢を見た挙句、それを少女に語って聞かせたやばい奴になる。  確定していない情報を与えるのは良くないから、と自分に言い訳しつつ、由利は頭を振った。 「ごめん、俺は知らんわ」 「そっか……」 「筑紫ちゃんが被虐のSubって決まった訳やないんやし、さっさと番が見付かる可能性もあるんやから、悩みすぎるのも損やで」  思い付く限りの慰めを与えると、筑紫は案外早く吹っ切れて立ち直ったようで、徐々に普段の澄まし顔を取り戻していた。 「せやな。ありがと、由利兄ちゃん。  帰ったらママに、私がSwitchやったってちゃんと話す」 「ああ」  由利は筑紫を見送ってから道場に戻る。  片付けは丁度終わったところであった。 「モテモテやなあ、由利兄ちゃん」 「じゃかあしい」  茶化してくる栗栖、苦笑している夏目と連れ立って詰所へ行く。  詰所の中の間には邪機の死骸を素材ごとに分別している相馬が、奥の間には事務仕事をしている佐久良が居た。

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