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五十話※ 泡沫
五年前。
田中家に居候して間もない頃、由利は三善からお遣いを頼まれて人生初の買い物に出掛けた。
ぼったくられない為に物価の相場を勉強し、筆算かつ時間は掛かるが足し算をマスターし、完璧な状態で臨んだ筈だった。
しかし由利が訪れると店仕舞の振りをしたり、刀を突き付けて追い払ったりする者が殆どで、頼まれていた品物を半分も買うことが出来なかった。
製薬ラボの直営店から叩き出された時は、さすがに食い下がった。
三善の薬を買わなくてはならないからだ。
「困っとる者が居るから来たのに、売ってくれへんのか!?」
訴えるも、三善の名は出さなかった。
「俺の姉も、彼の父親も、それから沢山の友人達も皆、浄世講に殺された!」
カウンターの奥で泣き崩れる青年の肩を抱きながら、店主の男が叫んだ。
「従業員にも、大切な人を失わんかった者は一人も居らん。
小路一人に全ての罪を着せて自分は逃れようっちゅうつもりやろうが、そうはいかへんぞ。
分かったら失せろ。
いつか悪事が露見して塔院佐久良に殺されるまで、せいぜい苦しめ!」
男の罵声を由利は黙って聞いていた。
そこに、怪物が吠える様がでかでかと描かれたTシャツを着た少女が近付いて来たかと思うと、由利を店外に押し出して、閉ざされた硝子戸の向こうに仁王立ちした。
斬るなら斬れ、その時は悪として徹底的に弾圧してやる――そんな意志が宿っていた。
軽いままの籠を抱えて帰って来た由利を、三善は苦笑しながら迎えてくれた。
「薬やったらあと二日三日分あるから平気やで。
嫌な思いさせてごめんな、今度は一緒に買い物行こ」
「俺が一緒やったら、おばあに迷惑掛けてまう」
「掛からへんよ。
外野にとやかく言われることより、重たい荷物提げて帰る方がしんどいわ。
荷物持ちくらい頼まれてくれるやろ」
三善の言う通り、そして三善に由利を託した張本人である佐久良の見立て通り、周囲から尊敬されている三善が近くに居る時は誰も由利を責めなかった。
一人でふらっと買い物に立ち寄るということが出来ず不便は感じたが、幽閉生活に比べれば余程ましなので耐え忍べた。
季節が変わった頃、狩りを終えて詰所から田中家に帰る道中、由利の耳に悲鳴が届いた。
泥梨大路から鬼隠 辻を覗き込むと、中型の邪機が一つの小さな人影に斬り掛かっていた。
その人も刀を持って応戦しており、邪機のアームを数本断ってはいたが、それでは破壊には及ばない。
ネオンライトが邪機に襲われている者の姿を照らす。
それは先日製薬ラボで由利を追い出した少女であった。
由利は迷いなく清けし雪村を抜くと、強く地を蹴り、迫る屑鉄の刃と少女の間に割って入った。
攻撃を弾き返した瞬間にグレアを発動する。
動きを止めた邪機の通信機にハネカヅラを投げ付けて割ると、細道に静寂が戻った。
邪機を半分に斬ると、片割れを少女に差し出す。
相変わらず怪物が描かれたTシャツを着た少女は、死骸を受け取ることなく何歩か後退った。
「あんなに何千人と殺しといて、今更人助けしたかて誰もあんたを許さへんで」
「人助けやない。
邪機の死骸は金になる、それだけ。
君も戦っとってんから、死骸を持って行く権利はある」
由利の功利的な発言を、驚くやら軽蔑するやらで顔を引き攣らせながら少女は見上げていたが、やがてぶっきらぼうに死骸を受け取る。
「礼は言わへんから。
助けてくれたのとこれ貰たの足したかて、友達を浄世講に殺されたのはちゃらにならへんねんからな!」
「構へん」
膝を擦り剥いた方の脚を庇うようにひょこひょこと走り去って行く少女の背中を一瞥して、由利も邪機の死骸を拾い上げた。
少女と由利は、それから間もなく二度目の再会を果たす。
詰所に佐久良のサプレッサーを届けに来たのが彼女――柳沢林だったのだ。
以降、月に一度は必ず顔を突き合わせる羽目に陥っていた。
林は由利を虐殺の黒幕として疑い続ける一方、佐久良のことは英雄視していた。
ネオ南都では多数派の立場だ。
由利は林の存在をいちいち気にすることなく、堂々と佐久良の隣に居続けた。
そんなことが一年近く続いたある日、道場の隅で冷えた茶を呷っていた由利に、林が話し掛けてきた。
「まだ佐久良さんに殺されてへんねんな」
「そら、俺は悪巧みなんぞしとらんし、モノノベにとって重要な戦力やからな」
水筒から口を離した由利は、横目に佐久良を見つつ答えた。
佐久良は道場の中央で子ども達に淡々と指導しているところだ。
「私の家族も、製薬ラボの皆も、貴方のこと嫌いや。
やけどあの人達と由利さんを交互に見とるうちに……よう知りもせんと悪者扱いすんのもちゃうかなって」
少し意外なことを告げられ、由利はぽかんとした。
林は頭を掻いた後、険しい表情で由利を見上げてくる。
「ほんまのほんまに確認するけど!
小路を裏で操るとか、また軍団作ろうとかしてへんねんな?」
林の問いは真剣そのものだった。
本当のことを語っても林なら、言い訳するなと非難してくることも無いだろうと由利は判断し、こちらも真面目に答える。
「ああ。
もし俺が運営に関わってたら今頃浄世講は滅ぶことなく皆から敬われてた筈や。
仮に俺が軍団を作るなら、はよから子ども達をルールで縛り付けて集団行動の訓練でもさせとる。
そうなってなくて、俺がここに居るってことが、一番信用してもらえる事実やろうか」
「……そっか。
佐久良さんのことも誑かしとるんちゃうかって疑いはしたけど、その愛想悪さと剣術馬鹿っぷりでは……無理やろしなあ」
少々悪口じみた理由ではあるが、由利への憎悪や嫌疑は晴れたようだった。
「ほな、言わなあかんこと言うとくわ。
邪機から助けてくれてありがとう」
それだけ言い残すと、林は足早に道場を去って行った。
入道雲が聳える青空の下、後ろ姿が遠ざかって行く。
浄世講がネオ南都に残した傷は未だに癒えない。
しかし少しずつ変わるものもあるらしい。
左目に鈍痛を感じながら、由利は空を見上げた。
今日も目覚めれば、愛しい人の寝顔が瞳に映る。
彼の寝顔には、常に悪夢を見ているかのような陰がある。
左の額から頬にかけて走る傷の引き攣れを見ていると、繊細なリバーレースを手にした時と同じうっとりした気分が湧き上がる。
意識がはっきりした後も、佐久良はベッドに留まって由利との共寝を噛み締める。
しかしずっとこうしている訳にもいかず、起き上がると音を立てないように身支度する。
シンプルなカットソーの上に、艶やかなカーディナルレッドに鳳凰や小花を散らしたマオカラージャケットを羽織る。
ボトムスは赤いペイズリー柄の生地とシックな黒一色の生地を組み合わせたバイカラーのラップスカート。
レザーの細いベルトや目の粗い網タイツで全体の雰囲気を引き締める。
鏡台に向かいながらも、ちらちらと由利を見てしまう。
ドロップさえ治ればこの部屋からは永遠に消えてしまう、幻のような光景。
定期的に盗み見ないと、本当に居なくなっているのではと錯覚する。
アイホールに赤のシャドウを広げ、目尻に差し色の緑を入れる。
服に合わせ、佐久良にしては珍しいカラフルなメイクだ。
髪を数束掬い取って三つ編みを二本作ると、一方はカチューシャ状に、もう一方は丸めて花飾りのようにして留め、鳳凰の羽を模した簪を挿す。
最後にタッセルのピアスを耳に通せば完成だ。
ついこの間までは無様な屍を晒さない為だけに着飾っていたが、今では由利に綺麗と思われたいという気持が動機の何割かを占めている。
料理房へ下りてバゲットを切っていると、由利がやって来た。
空腹らしく、寝間着のまま取りあえず食べに来たといった感じだ。
「おはよ。パンか」
「ああ」
「やったら……せや、あれ有ったな」
由利は冷蔵庫からクリームチーズと、塩や酒粕で漬けた瓜の燻製を出してきた。
切り終えたバゲットを皿に乗せながら、佐久良はそれを不思議そうに見守る。
「朝から酒でも呑む気か……?」
「ちゃうわ。パンに乗せんねん」
「漬け物を?」
「まあ食べてみいや」
中の間に朝食をセットすると、早速バゲットにクリームチーズを塗り、その上に漬け物の燻製を乗せる。
半ばまで齧ってから、佐久良は素直な感想を口にした。
「美味しい」
「せやろ」
由利は得意げに頷いた。
幽閉生活の反動か、由利は手間を掛けてでも美味しいものをきっちり食べたがる。
その為に好きでも得意でもない料理を頑張る様は、ひた向きで愛らしい。
「佐久良はいつも何乗せて食べてんの」
「バター塗って、砂糖塗したりみじん切りにしたガーリック乗せたり……そんくらいかな。
気い向いた時は、砕いたナッツ散らすとか」
「元々ナッツ混ざってるパンやったら食べたことあるけど、上から散らすのはやったことないな」
「案外悪くないで、ゴリゴリした食感で……蜂蜜とかシナモンとか掛けたら味変えられるし」
「へえ、今度やってみよ」
その後も由利は思い出したように、オリーブオイルを塗った上に焼きマッシュルームや素揚げの蓮根など、バゲットに合うものを勧めてくれた。
佐久良は一人暮らしが長いため料理は上手い。
しかし食への興味が強くないので凝った調理はしない。
ただ由利の話ならば何でも聞き入ってしまう。
好きな相手の考えることを一つでも多く知りたかった。
食べ終えてから佐久良は鹿島の世話をしたり、洗濯機に大物洗いのセットをしたりと小一時間程家事をした。
終えたところで由利を探すと、由利は三階の机で懸命に本を読んでいた。
服はオーバーサイズのトレーナーと、パンキッシュなサルエルパンツに着替えられている。
トレーナーの上からレザーのハーネスを締めており、だぼついた服でも胴の細さが浮き彫りになっていた。
「お疲れさん」
「ああ」
互いに激しい症状は出ていない。
体調が安定している時にしっかりとプレイしておいた方が効率は良い。
「しとくか? プレイ」
「おう」
色気の無いやり取りで決定すると、佐久良はラグマットを部屋の中央に敷いた。
「Kneel(跪け)」
コマンドを出された由利はラグマットの上に跪く。
相変わらずの硬い表情の中にも、本能からくる喜悦が既に滲んでいる――佐久良には分かる。
「Strip(脱げ)」
「はい」
ベルトを数箇所緩めればハーネスから胴が抜ける。
そしてトレーナーとサルエルパンツも脱いだ所で、佐久良はハーネスを手にし、半裸の由利に装着しようとした。
由利は戸惑って、腕を上げるべきかどうか迷っている。
「万歳して、由利」
「は、はい……?」
「えらい不思議そうやな」
「服の上からハーネス着けることはようあるけど、地肌には初めてやから……落ち着かへんっていうか」
パンクファッションに慣れ親しんだ由利にとって拘束具は苦界の象徴かつ、それに立ち向かう反骨精神の可視化でもある。
手錠のような日常生活で目にしないものならばともかく、服飾に取り入れられたものは本来の使い方にこそ違和感を覚えてしまう。
「これ本格的な革のハーネスやから、プレイに使わしてもらうで。
蔵にあったやつは合皮で、あかんなっててん。
デザインもこっちの方が良い」
「そういうことやったら、まあ」
戸惑いを呑み込んだ由利は、怖ず怖ずと腕を上げた。
由利の胸から背にかけてハーネスが回され、うなじを通るベルトに鎖が繋がれる。
更に両脚を纏めて一つの革袋に包まれ、レースアップで締め上げられた。
腕は自由だが脚がぴったりと揃えられている状態は、以前本で見たあざらしという動物に似ている。
「由利、四つん這いにCrawl(這え)」
コマンドに従って四つん這いの体勢を取った由利の背の上に、佐久良はコップを置く。
そこに水がなみなみと注がれ、由利に重く圧し掛かる。
「そのまま、零さんようにStay(留まれ)」
命令するなり鎖を床に放り出し、由利のことなど忘れてしまったかのように佐久良は離れていく。
部屋の端に設置された李朝風の飾り棚からネイルポリッシュを取って来ると、先程まで由利が本を読んでいた椅子に腰掛けて手足の爪に黒を塗り始めた。
二人の間には二メートル近くの距離がある。
自分が机代わりに使われると思っていた由利は訝しがった。
そんな由利の様子を察したのか、佐久良がいかにも片手間といった感じで話す。
「何のこっちゃ意味分からんって面やな」
「……ポゼッションプレイが始まると思てたから……」
「机にされると思うてた?」
由利と会話しているということは、家具扱いする気は本当に無いらしい。
ならばこれは何なのか、と由利はどうしても理屈を求めてしまう。
そのせいでプレイに集中していない由利を見兼ね、佐久良がグレアを発動した。
湧き上がる不安で震える四肢を持ち前の運動神経でどうにか支え、水を零さずには済んだ。
しかし由利の鼓動は急に速くなる。
「いちいち考えるな。御主人様が所有物を弄ぶのに理由付けが要るか?」
「いっ……いいえ」
「由利はコマンド聞いとるだけで良えんや」
グレアの光が失せ、佐久良は再びネイルに視線を向ける。
由利は俯いて息を整え、まだ涼しい気候にも関わらず滴ってきた自身の汗を見下ろしながら、無心で命令を遂行した。
無意味であることこそ、今の由利に課せられた意味なのだ。
Subとして、何よりも無様に支配を受けなくてはならない。
これに似たシチュエーションをかつて夢に見た。
しかし夢に欠けていたものを――無機物の重みや、佐久良の圧倒的な存在感を――今は一身に受止めている。
理不尽な命令に対する困惑は身体感覚に換わって、淫楽として少しずつ全身を蝕む。
頭から足先までSubの本能が蠢いて骨肉を灼く。
ハーネスに繋がった鎖の左右非対称な重みや、広げられないようにされた脚のせいでバランスを保てない。
気を抜くと情けない声の一つでも上げてしまいそうだった。
堪えようと身を固くすると背が丸まって、とうとうコップが滑り落ちた。
ラグマットの上に水がぶちまけられる。
由利はすぐさま佐久良の方を見上げた。
佐久良はネイルが乾いたことを確認してから立ち上がってこちらへ来る。
「粗相したん? しゃあないな」
佐久良は由利を抱え上げ、床に仰向けに転がす。
濡れたラグマットを退けると由利の傍らに座って、鎖を掴んだ。
鎖のナスカンをハーネスの胸元まで滑らせてきて、少し引っ張り上げると由利の背中は容易く床から浮いた。
「今から由利のこと踏むけど、これはお仕置きやねんからスペース入ったらあかんで?」
「っえ、ちょ……」
ただでさえコップを落とさない為に、スペースに入って体が動いてしまわないよう我慢していたのだ。
今踏まれれば耐えきれずスペースを起こしてしまうかもしれない。
由利の焦りなど無視し、佐久良は右足を由利の腹に押し付けた。
鎖とハーネスで上方に引っ張る力と、下へ踏み付ける力に痩躯を挟み込まれ、浅くなっていた息が余計に体内へ行き渡らなくなる。
佐久良の右足は由利の胸へ、喉へ重みを掛けながら移って行く。
やっと離れたかと思うと顔を踏み付けてきて、足裏で視界を覆った。
更に丁度爪先が示す先にあった由利の外耳孔を親指がまさぐる。
皮膚の擦れ合う乾いた音が頭蓋に響くのは決して気持ちの良いものではなく、これがもし虫の侵入で鳴らされていたならば由利は発狂していただろうが、佐久良にやられているぶんには妙な興奮さえ覚えた。
「理解しとるか? 由利は俺の許しがあらへんと、呼吸することさえ許されへんねんで」
そう言いながら佐久良は、紐を解いて由利の下着を抜き取った。
佐久良が足を退けたことで戻ってきた由利の視界に、涅色の流し目が飛び込んでくる。
冷ややかな視線を浴びただけでもスペースに入りそうで、由利は必死に明日の献立を考えて気を逸らした。
「Hold(咥えろ)」
咥えろ、というコマンドと共に、由利の唇の隙間へ下着が差し込まれる。
唇で怖ず怖ずと布地を挟み込んだ瞬間、再び佐久良の足が顔に押し付けられた。
そして鼻を足指で摘ままれる。
「いーち、にーぃ、さーん……」
鎖を引きながら佐久良が秒数を呟く。
宣言通り呼吸の一切を佐久良に禁じられていた。
「Goodboy(良い子)。お仕置き耐えれて偉いな」
三秒で鼻も口も開放され、由利は慌てて息を吸い込む。
お仕置き自体はごく短く一、二分だったが、内容は非常に濃かった。
許しのコマンドが出た瞬間、今まで気力だけで遠ざけてきたスペースに一気に呑み込まれる。
「っ、佐久良ぁ、待っててちょっと、こんまま……」
隣で片膝を立てて座っていた佐久良の脚に、由利は腕を伸ばして縋りつく。
かつてなく深い酩酊感の中で藻掻き、止まり木として佐久良を求めた。
「水は零してしもたけど、頑張って命令守ろうとしてくれてたのは知っとるで。
ドロップ治したくて誰よりも頑張っとるのは由利やもんな」
拘束を緩めてやりながら、佐久良は優しく言葉を掛けた。
お仕置きの間じゅう床板に転がされていた由利を抱え上げ、寝台へ連れて行き布団に包んでやる。
その時由利の指先が、佐久良のジャケットの袖口を遠慮がちに引いた。
「明日のご飯の献立考えて、スペース入らへんようにめっちゃ我慢しててん……もっと褒めて」
いつもならば戦いぶりなどを讃えられても『まだまだ理想には程遠い』の一点張りで一切浮かれない由利が、潤んだ瞳を向けながら懇願してくる。
今にも泣きだしそうな、しかし悲哀は無く官能で惚けた表情だ。
懸命に命令を聞いてくれた良い子を全力で抱き締めて撫で回したい。
痛みに似た衝動が佐久良の胸を突き抜ける。
ただ、それを実行してしまうと由利を手放せなくなりそうだったので踏み止まった。
「してほしいことでもあるん?」
頭を撫でてやりながら訊ねると、由利は素直に頷いた。
「あの歌、間近で聴きたい」
「歌?」
「よう窓辺で歌てるやつ」
そこまで言われて、『スペイス・オダティー』のことを言われているのだと気付いた。
まさか聞かれていたとは知らなかったので、すぐには思い至らなかったのだ。
「聞いてたんか」
「たまに、ちょっとな」
「やかましくしてたか? ごめん」
「いいや、俺が勝手に目え覚ましとっただけやから」
「そうか……」
ベッドに腰掛けて、静かに呼吸を整えてから佐久良は歌い出す。
両親を亡くして以来、人前で歌うのは初めてだ。
久方ぶりの観客は、リズムに乗る訳でもなく、じっと歌を聴いていた。
由利の望みなのでかつてなく丁寧に歌いきったが、果たしてこれがアフターケアとして成立したのだろうか、と不思議に思った佐久良の前で、由利がそっと上体を起こす。
由利が真剣な表情で数秒目を瞑ると、その周囲に薄っすらと光るものが見えた。
最大出力には程遠いが、グレアだ。
「ドロップが軽くなったんか」
目標に一歩近付いた喜びの後に、由利との生活の終焉という事実がちくりと刺さる。
そっと開かれたオッドアイが、佐久良を真っ直ぐに見つめた。
「綺麗な歌声やった……ありがと」
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中盤とんでもない飯テロをしてしまったことをお詫びいたします……!
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