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星間歩行 3

 次の日曜日、明人は結とふたりで結のアパートに向かった。桜が淡い緑の若葉を茂らせる、穏やかに晴れた休日だった。  飛勇展の展覧会が七月に迫っていた。結は例年通り、絵のモデルを明人に依頼した。  結のアパートは、油絵の油の匂いが漂う木造の古い六畳間だった。畳の上に板を敷いて、茶色に下塗りされた百号の巨大なキャンバスが壁に立てかけられている。壁面は結がいままで描いた油絵や石膏像などのモチーフでぎっしり埋まっていた。 「キャンバス、また増えたな」  明人が部屋を見回して呆れる。結が服の上に絵の具で汚れた白衣を着ながら苦笑する。  作品の隙間で、明人はポーズを取った。茶色のゴブラン織りのカーテンが引かれた背景の前に、明人は座った。ギリシャのトガのような白い布を身体にゆるく巻きつけている。椅子に座って、物思いをするように床の一点を見つめるよう指示される。  結は下塗りされたキャンバスに木炭で輪郭線を描き始めた。  結の専門は半抽象だが、公募展用の絵は具象画を描いていた。公募展の展覧会では絵を売ることはできない。しかし展覧会場には評論家や画商が作品を観に訪れる。作品の販路を広げる大きなチャンスでもあった。  本来の結の油絵は、筆触分割という印象派の技法を用いた宇宙の絵だった。筆触分割とは、原色の絵の具で画面に点を描くことによって、目で混色させる技法である。絵の具は混ぜると色が濁るが、筆触分割では、透明感のある鮮やかな色を出すことができる。  もし印象派の画家が宇宙飛行士だったら、彼らは宇宙の絵を描いていただろう。結は印象派の画家が見た宇宙の絵を描きたいと言っていた。  スマートフォンのアラームが鳴った。モデルが休憩を取る時間だ。  結がキッチンでコーヒーを作る。ふたりはキャンバスの隙間に座ってコーヒーを飲んだ。 「公募展の絵では宇宙を描かないのか?」 「飛勇会はみんな具象画だから、抽象画で賞を取るのは難しいよ」  結も公募展の賞を狙っていた。そのためには自分の本来の絵が描けなくても仕方ないと思っているのだろう。  結が明人のワンルームマンションに同居するようになってから一年が経っていた。結は明人に家賃も光熱費も払っていない。それが結の欠点だった。が、悪いと思っているのか、ときどき思い出したように食糧や日用品を買ってくる。ここでは生活するスペースがないだろうとキャンバスが立てかけられた部屋を見回す。  結には公募展への出品料や画材などの活動費がかかる。結がギリギリの生活をしているのはわかっているので、明人が家賃の件を言い出すことはない。ただ少しは負担をかけていると自覚してほしいとは思っていた。  コーヒーを飲み終える。結はカップを片づけてキャンバスの前に戻り、明人はふたたび絵のポーズを取るために立ち上がった。

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