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星間歩行 4
「結はまだ帰ってないの?」
数日後、時国翔磨(ときくにしょうま)が明人のマンションを訪れた。翔磨は会社帰りらしく、紺のダブルのスーツと白いシャツ、臙脂と白のヘリンボーンのネクタイを締めている。
翔磨は結の美術大学時代の同級生で、大学三年生のときから三年間、結と付き合っていた。目を見張ったような二重の目と大きな唇、くせっ毛の髪を栗色に染めている。人好きのする整った顔立ちとすこし鼻につく軽薄さが同居した翔磨は、出版社で美術雑誌の営業をしていた。
「アトリエにいなかったですか?」
「結の家はアトリエになったんだ。贅沢だな」
結は仕事に行く前に自分のアパートで絵を描くと言っていた。
翔磨は十畳一間の室内を珍しそうに見回していた。部屋にはシングルベッドと本棚が二台、床には大小のローテーブルが並んでいた。それぞれにノートPCが置かれている。大きなテーブルが明人、小さいほうは結のものだ。結のテーブルのまわりには美術雑誌や画集の積まれた地層がある。
ふたりのテーブルの上には同じ多肉植物の鉢植えが置かれていた。机の上に観葉植物があると仕事がはかどるといって結が買ってきたものだ。
「ここが君らの愛の巣なんだ」
「何、気持ち悪いこと言ってるんですか」
ペットボトルの麦茶をグラスに注ぎながら、明人が顔を歪ませる。テーブルのノートPCを片づけると、明人が翔磨へ麦茶を出した。
翔磨がラグに足を投げ出して座る。
「結と揉めたんだって?」
翔磨から鋭い質問を浴びせられ、明人が身体を強張らせた。息苦しさを感じながら、向かいの座椅子に腰を下ろす。
「心配しなくても、誰にも言わないよ。僕だって結がかわいいからね」
「……あなたは、兄貴とよりを戻したんですか」
「無理無理。結は頑固だからね。いっぺん結に嫌われた奴は、一生嫌われたままだよ」
明人は出会った当初から翔磨のことが苦手だった。どうやら今日の翔磨は結ではなく自分に会いにきたらしい。
「文化を育てるにはお金が要るんだよ。頑張って結を支えてやってくれ。ゴッホを支えて面倒を見たテオみたいに。美しい愛情じゃないか」
「そんなもの、俺たちにはありませんよ」
ゴッホの評伝によると、生涯で一枚しか絵が売れなかったゴッホの創作活動を支えていたのは、弟のテオの収入だった。明人が眉をひそめる。
「君になくても、結にはあるよ。結は君が好きだからね」
言葉が胸に落ちてくるまで、しばらく時間がかかった。それは、血は繋がっていないが兄弟としての「好き」だろう。明人の顔が怪訝そうに歪む。
「あれは翔磨さんと俺を間違えただけでしょう」
「それが結の嘘なんだよ。結は君だとわかっていてやったんだよ」
腹に不快感が溜まる。たしかに結はバイセクシュアルだ。が、義弟である自分とあんなことはしないだろう。
「兄に好かれて、気持ち悪くないか? 何なら、僕が結を引き取ってあげてもいいけど」
結が気持ち悪いという以前に、明人はこんな話を無遠慮に持ち出す翔磨の態度が不快だった。もし翔磨の話がほんとうならば、結もこのようなかたちで自分に知られたくはないだろう。そう思うと余計に翔磨に対して苛立ちが募った。
「あの話は、機会があれば兄貴に直接聞きます。それよりも、こんな話を無神経にするあんたに腹が立つ」
「君を好きな結といっしょに暮らせるのかい?」
「兄貴に確かめてみないとわかりません。あんたには関係ない」
「そう思うのは君だけだよ」
翔磨は微笑んだ唇に拳を当てると、廊下を通り抜けて玄関のドアを開いた。
「結が君のことを相談できるのは、僕しかいないからね。じゃあ、また」
翔磨は頭の横でひらひらと手を振ると、麦茶に手をつけずにマンションを出ていった。
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