11 / 22
星間歩行 11
翔磨が訪ねてきた二日後の夕方、結が明人のワンルームマンションの玄関に立っていた。白いガーゼ地のシャツと黒いジーンズ姿の結は、常夜灯に照らされて青白く痩せて見えた。
「いままで明人に甘えて、ごめんなさい。シャンパンはもう飲んだ?」
「まだ冷蔵庫にある」
結はお祝いをやり直そうと言った。
うすいゴールドのシャンパンをグラスへ注いで、乾杯する。軽くさわやかな飲み口のシャンパンが喉をうるおしていく。
「あのとき、明人の話を最初しか読んでいなかったんだ」
結は金色の泡に魅入られたようにシャンパンをじっと見つめている。
「男が天使の苗床になって死ぬところまでしか読んでいなかった。あの話は親子の比喩みたいだね。育てるものと、育てられるものの比喩に見えた」
結が苦手な小説を読んだのか、と明人はすこし感心した。義弟が書いた作品だから、結は一生懸命読んでくれたのだ。
「最初の印象だけで怒っちゃってごめんね。明人のこと応援するって自分で言ったのに」
「俺にもやましいところがあったからいいんだよ」
「明人はすごいよ。ぜったい作家になれる。偉い小説家の文章みたいだった。ちょっと硬くて、古典的な感じで」
結が自分の道具袋から茶封筒を取り出す。
「これ、三万円。家賃には足りないと思うけど」
封筒を差し出す結の指先が赤い。結は目の光を弱めてうつむく。
「いままでお金を入れなくてごめんなさい。なるべく生活費を入れるよう努力するから、またここに戻ってきてもいい?」
明人はしばらくのあいだ結の目を見ていた。明人の目線に瞳を揺らした結は、居心地悪そうに身じろぎをする。
「兄貴は翔磨さんと付き合ってるのか?」
結は穏やかな表情でうなずいた。眉間に皺が寄っている。結は嘘をつくとき、眉間に皺を寄せる。明人の胸が不穏にざわつく。
結は、いったい誰と間違えて自分にフェラチオをしたのだろう?
「翔磨さんは兄貴と付き合ってないと言ってたぞ」
「翔磨はそういう奴なんだよ。掴み所がないっていうか」
「そういう奴だから、兄貴は翔磨さんと別れたんじゃないのか?」
「そうだけど……でも、俺をわかってくれるのは、翔磨しかいないから」
結の眉間の皺が深くなる。結は自分の質問で苦境に立たされている。
確かめなければならないことがある。
「あのとき、ほんとうは俺だってわかってた?」
結の表情に一瞬、空白が訪れた。猫のような目の焦点が遠くなる。
「わかっていたら、あんなことしなかった」
結の眉間に皺はなかった。結はほんとうのことを言っている。
あの夜の出来事は酔っ払った上での事故なのだ。結がしらふだったとしたら起こらなかった事故。相手が自分だと分かっていたら、結はあんなことはしなかった。万が一にでも明人が起きてしまったら大変なことになるのはわかりきっているのだから。
明人は結の目の奥を覗き込むと、テーブルの上に置かれた茶封筒に手をかけた。結の表情に安堵感が広がる。
――結は、俺が好きなのだ。
心が鉛を飲み込んだように重い。本来は、結を家へ置いておくべきではないのだろう。だが、結は明人に好意を告げる気はない。だから結の表情に嘘がないのだ。
「ありがとう。明人の邪魔にならないよう努力するから」
結は自分が許されたと思ったようだった。穏やかな表情でシャンパンのグラスを空けていた。
ともだちにシェアしよう!