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星間歩行 19
次の日曜日も、明人は結の絵のモデルをした。六月に入ると、アトリエでポーズを取っていても肌寒くなくなってきていた。
絵は六割ほど進んでおり、下地の茶色が消え、明人の顔の輪郭やカーテンの紋様がうっすらと表れ始めていた。
結は自作の色の配合表を見ながらキャンバスに色を重ねていった。が、気に入らない箇所があるのか、スケッチブックに木炭を走らせる音があたりに響く。
「絵を描き直すのか?」
ポーズを取りながら明人が聞いた。
「明人の顔が違うんだ。もっと堅いガラスみたいな……」
食パンで木炭の線を消しながら、結がひとりごとのように言う。
「……もっと翳りがある……」
明人は結の観察眼に驚いた。結への不信感が顔に出ているのだろうか。
結がふたたび絵筆を手に取って、キャンバスに色を載せ始めた。明人は結を邪魔しないよう、虚空の一点を見つめ続けた。
休憩時間に明人は結のスケッチブックのことを聞いた。
「前から俺をけっこう描いてたよな?」
「一番身近なモデルだったから」
結は白衣姿でコーヒーカップを両手で包みながら、照れたように視線を落とした。最近結の照れた顔をよく見るな、と明人はコーヒーを飲みながら思う。
「だから明人が彼女さんと本気で付き合い始めた時期も知ってるよ。大学一年のころだ。そのとき急に、顔つきが変わって大人っぽくなった」
結の言葉は当たっていた。結は絵に視線を向けると、背中を丸めてボソボソと呟く。
「明人はずっと変化し続けているんだ。十代のときはもっと目も頬も丸くて、透明感があった。二十代になってからは顔が鋭角に引き締まって、目に深みが出てきた」
「それが俺をモデルに選んだ理由?」
結は首を左右に振った。
「俺がもっとも深く描けるのが明人だから」
明人は、結が描いてきた歴代の自分の絵を思い出していた。ギリシャの彫刻のように描かれた明人の像に、結は自分への想いを込めていたのだ。小説でも思い入れのある題材が書きやすいのと同じだろう。
ふと『天使の苗床』を思い出す。
「俺が書いた小説のことだけど、人は誰かの天使であり、苗床でもあると思うんだ。兄貴が一方的に俺に世話になっていたんじゃなくて、俺も小説のインスピレーションをもらってた。俺だって、いろいろなものをもらっていたんだ」
「俺があげられるものは何もなかったよ」
「兄貴がいたから、短編の賞が取れた」
結はコーヒーを飲み干しながら「ちょっと複雑」と苦い笑みを浮かべた。
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