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星間歩行 22

 その夜、鏡の前で歯を磨いていたとき、明人は子供時代の記憶を思い出した。  小学生のころの結は、絵の成績で周囲に妬まれることがあった。結はあまりにも絵がうまかったために友人が少なく、休み時間、教室でひとりノートにスケッチをしていた。  結はときどき上級生に苛められていた。放課後、上級生たちが結のノートを取り上げて絵に落書きをしていた。明人は唇を噛みしめて黙り込む結の姿を無視した。飛び抜けた天才は凡人に妬まれるものだと、明人は冷めた目で思っていた。  が、結が上級生に『なよなよしたおんな』と指を差されて笑われたとき、明人は結を放っておけなかった。結は蒼白な顔で空中を見つめたまま、息ができなくなっていた。  それは、明人だけが知っていた結の秘密だった。  以前結は鏡台の前で義母の口紅を塗っていた。赤い唇を開き、鏡に向かって優しげに微笑む。そして唇をティッシュで乱暴に拭うと、目に涙をいっぱい溜めていた。  明人は息を呑んで襖の陰に隠れた。これは自分が見てはならないことだと、反射的に悟っていた。結は女性に憧れていたのだろうか。あるいは、きれいなものに惹かれる画家の感性で、もっとも美しい存在に興味を持っていたか。明人は結の心を推測してみたが、それを見なかったことにしようと決めた。  なよなよしたおんな……いま結は、誰にも言えない秘密を暴かれようとしている。義兄を自分が守らなければならない。  明人は飛び出していくなり、上級生の上顎に拳を叩き込んだ。ぐらりとかしいだ相手の腹を蹴って地面に叩きつける。  上級生は悔しそうに明人を睨んだが、何も言わずにふたりのもとを去っていった。  そのときの結がどんな顔をしていたか、明人はもう覚えていない。  明人は歯を磨き終えて口をすすぐと、鏡に向き直った。明人にとっては何の変哲もないふつうの男の顔だが、結には自分を助けに来てくれた王子様のように見えていたのだろうか。  そしてあいかわらず結の目には魔法がかかったままなのだろうか。決まりの悪そうな仏頂面が、鏡の向こうから自分を見返している。  あのころの明人は結に興味がなかった。だから結が口紅を塗った顔も、上級生に苛められていた記憶もすっかり忘れてしまっていたのだ。

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