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星間歩行 26

 次の日曜日、明人は結の絵のモデルをした。  先週下塗りした明人の顔の部分を、結が木炭でデッサンする。明人は結の絵がうまくいくことを祈りながらポーズを取り続けた。 「明人、いいことがあった?」 「何でそう思うんだ」 「顔つきがちょっとやわらかくなった」  やはり結の観察眼は鋭かった。結への嫌悪感がなくなり彼がひとりの弱い人間に見えるようになった自分の内面を、結は感覚的に見抜いているのだ。  木炭を走らせる音がやみ、絵筆でキャンバスを叩く音があたりに響き始めた。結は明人の顔を捉え直すことができたようだ。明人はほっとして部屋の一点を見つめ続けた。  休憩のアラームが鳴った。結は粗く色を載せた明人の顔を遠くで確認しながら、何事かを考えている。明人は結の邪魔をしないようにキッチンへ立つとコーヒーを淹れた。  結にコーヒーを渡す。結はまだ絵の世界に入り込んでいるようで、コーヒーを機械的に飲みながら、絵から目を離さない。明人は黙って結のとなりに座るとコーヒーを飲んだ。  ふたたび絵を描く時間になった。結はどこか中空を見るような目で明人を見据え、ひたむきに絵筆をキャンバスへ走らせていく。  ――もっと深く。  ――もっと心の深いところで。  絵筆の動きが激しくなる。結の熱気を肌で感じ取る。結の視線が落ちると肌がピリピリする。  結はいま自分の想いをキャンバスへ叩きつけている。結のテンションが上がっていく。  明人はふいに理解した。結は自分に好きだと言わないのではない。言えないのだ。言えない想いを、こうして絵筆に託している。何度も明人のスケッチを重ねながら、明人に伝えられない想いを募らせていたのだ。  ふたたび休憩のアラームが鳴った。結が深くため息をついて筆を置く。ものすごい集中力だった。絵にすべてを出し切った結の顔は、頬が青黒く落ちくぼんでいた。 「兄貴、大丈夫か?」  ふらりとかしいだ結の身体を駆け寄って支える。  明人は絵を見てハッと息を呑んだ。筆触分割で原色の点を打たれた自分の顔は、結の激しさに反してとても静かな表情をしていた。  赤・黄色・白の点で構成された自分の顔は、モザイクの宗教画のように荘厳な憂いを浮かべている。  結はあの激しさで自分の静謐な世界を引き出したのだ。明人の純粋な部分、まじりけのないものを結は明人の内面から掴み出して絵に表現したのだ。 「兄貴、座ったほうがいい、疲れただろう」  結の肩に手を貸して、壁際に座らせる。結はまだ自分の世界で意識をたゆたわせているのか、ぼんやりと床の一点を見つめている。  すごいものを見た。結のほんとうの才能の片鱗を垣間見たような気がした。  結のように小説を書きたい。結のように心を燃え上がらせて、自分も小説を書きたい。  そして結の役に立ちたいと思った。結がずっと明人を助けてくれたように、自分も結を助けたい。  明人は立ち上がると、結の絵をもう一度検めるように見た。絵のなかの自分は、何かを想うようにかすかに首を傾けていた。明人はようやく気づいた。明人の胸に灯がともる。  結の絵は、明人への想いを告げられずにいる結の愛の表現なのだ。

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