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星間歩行 37

 結の絵はすべて変わってしまったのだろうか。次の日曜日、明人は結の絵がレンタルされた喫茶店へ向かった。  喫茶店の壁面にかかった結の絵を見て、明人は胸を撫で下ろした。明人が見たことのない、斜めに渦を巻いた星雲の絵だった。鮮やかに発光する青と黄色の絵を見て、明人は結が本来の色彩を失ったわけではないのだと安心する。  コーヒーを飲んでいると、結が店に入ってきた。明人を見て、意外そうに目を見開く。  結は絵の入れ替えに訪れたようだった。大きなバッグを明人の席の向かいに置いて、店員にコーヒーを頼む。  明人の顔を見てはにかんだように笑い、椅子に腰を下ろす。 「ひさしぶり」  結の削げた頬には、明人を不吉な気分にさせる陰があった。澱んだ、逡巡を抱えたような目に、胸を衝かれる。  自分のそばにいたころ、結は一度もこんな目をしていなかった。 「個展、観に来てくれたんだって。ありがとう」 「翔磨さんに教えてもらったから」 「うん、心配してくれているって聞いた」  結はバッグから額縁の箱を取り出すと、明人に絵を見せた。小品展で見たモンマルトルの風景画だった。結の口元に曖昧な笑みが浮かぶ。 「展覧会で評判が良かったから……」 「兄貴はほんとうにこの絵でいいのか?」  結の瞳孔が収縮する。説教を受けた子供のように、結が肩を落とす。 「兄貴が描きたいのは、こんな絵じゃないだろう?」  店員が怪訝そうな顔をしながら結の前にコーヒーを置いていく。 「兄貴には自分の世界がある。今のままでは、兄貴の本来の方向性が変わってしまうように、俺には見えるよ」 「俺の絵の方向性なんて、ほんとうにあるのかな?」 「あるよ。そのために兄貴はずっと努力してきたじゃないか」  結がコーヒーに目を落として拳を握る。 「……そうしないと、自分が沈んでしまうから」 「沈む?」 「水のなかに」  結は額縁をバッグに片づけると、コーヒーを飲んだ。  結の精神の水面。おそらく自分は、結の踏み込んではならない領域に踏み込もうとしている。しかし、ここで結の手を離したら、誰も見ていなかったころの自分と変わらない。  明人は口元を引き結ぶと、目に力を入れて結に切り出した。 「また俺といっしょに絵を描かないか」  結の頬がぴくりと震えた。 「俺をモデルにするのでも、俺の家でいっしょに絵を描くのでもいい」  結は明人の申し出を沈鬱な面持ちで受け止めた。コーヒーに口をつけて、思わしげに首を傾げる。 「ちょっと、絵を掛け直してくる」  結は立ち上がって店員に話しかけると、宇宙の絵と風景画を掛け替えて戻ってきた。額縁をバッグに片づけて、飲みかけのコーヒーを残したまま立ち上がる。  明人が結の手から伝票を取って、結に店を出ようと促す。明人がコーヒーの代金を払って、ふたりは店を出た。結がコーヒーの礼を言う。 「明人とはいっしょにいられないよ」  夕暮れの青い光が落ちる人影のまばらな道を歩きながら、結は呟いた。 「明人は優しいから……」 「俺も小説に行き詰まっているんだ。ジャンルは違うけど、兄貴はずっと俺の前を走るライバルだと思ってた。兄貴がいると、俺も小説がはかどって助かる」 「明人がライバルだなんて、考えたこともなかった」 「俺はそう思ってたよ。だから、兄貴が元気ないと、俺も張り合いがない」  結はコートの襟に首を埋めながら、足元を見て歩いていた。 「すぐに答えは出さなくていいよ。またメールする」 「メールは、いらないよ」 「何で」 「……待っちゃうから」  結の声の語尾が消える。 「気持ち悪いだろう」  泣きそうな顔で前を向いている結の頭を、軽く撫でる。 「メールする」 「……わかった」  駅まで無言で並んで歩いた。自分とふたたび付き合うことは結の負担になるかもしれない。が、明人は自分がそばにいることで、結が本来の道に戻る助けができたらと思っていた。  自分たちには、絵と小説がある。もしかしたら、結は自分への想いを絵に昇華できるかもしれない。高校三年生のときに『啓示』で明人の肖像画を描いたように。  そのために自分が手伝えることをしよう。明人は濃い青色の空に光る星を見上げた。

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