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第50話 貴方なんかに負けない

「エロいな……誰にも見せたくないから、人前ではマスクして」 「知らないの? この紋様は、ヒート起こしてる時だけなんだよ」 「……今はヒートじゃないだろ」 「ヒートは収まったけど、番になったばかりだからじゃない? ……多分」  僕がそう言うと彼は、ふ〜んと言って僕の隣に寝そべった。急激に恥ずかしくなって、体を横にして後ろを向いた。  すると優しく抱きしめられて、首元に息をかけられる。ビクッとしたが、後ろからクスクスと笑い声が聞こえる。  この人は幾つになっても、僕のこと揶揄うんだろうな……。悪くないなと思って、腕に手を重ねて僕たちはしばらくそのままで体温を感じあっていた。  次の日になって、脱衣所の鏡を見てみると舌に紋様はなかった。やっぱ聞いていた通りに、ヒートの時だけってのは本当らしい。 「ほんとに、番になったんだ……嬉しい」 「俺の噛み跡ついてるし、間違いないな」  いつの間にか後ろに来ていた彼に、当たり前のように後ろから抱きしめられた。柑橘系の香りが、漂ってきたから直ぐに分かった。  僕も嬉しくなって、鏡越しに目が合って微笑みあった。もう何も怖くない……お兄さんに何を言われても、僕たちは引き裂かれることはない。  その日会社に行くと、いつもの通りに既にお兄さんが来ていた。バラの香りがするはずなのに、匂いがしなくて本当に番になったのだと嬉しくなった。 「兄さん、いい加減にストーカー行為はやめて下さい」 「匂いがしないってことは、番になったのだな」 「だったら、なんだって言うんです? 貴方には全くもって、無関係ですよね」  うわあー仲が悪いって言ったって、そこまで敵意剥き出しにしなくても……。周りにいた社員たちが案の定、ザワザワし始めていた。  そんな中お兄さんは、完全に我関せずで真顔だった。なんか上手く説明できないけど、悪い人じゃなさそうなんだよな。  言い寄ってきたとは言っても、強引な感じはなかった。いつも彼と一緒にいるタイミングで来てたし。  花向さんとは違って、怖い感じはしないし。何考えているのか、分からない点はあるけど……。 「上手くいったようだな」 「何言ってるんですか」  心底意味が分からずに、僕らの頭の中には疑問しか浮かばない。そんな中、平然とこっちに向かってくる。  警戒心強めだったが、ただ普通に僕の横を通り過ぎていく。その時に、僕だけに聞こえる声で呟かれた。その時の表情は、本気で彼を心配しているようだった。 「弟のこと、頼みます」 「はい!」  直ぐにポーカーフェイスに戻って、そのまま会社を後にした。僕は軽く頭を下げる。悪い人じゃないよな……。  何か事情があるのかも? そう思っていると急に彼に腕を掴まれて、社長室の方に連れて行かれた。  毎度の如く、机に座らせられた。好きだよね……何か座らせるために、机の上をいつだって綺麗にしている。  そこまでする必要性ってあるのだろうか……。そう思っていると、いきなりキスをされた。 「な、何?」 「あいつに何か言われてただろ。何言われた」 「弟をよろしくって」 「それだけ?」  僕がそのまま伝えると、彼は少し考えた後に顔を真っ赤にしていた。それが可愛くて、思わず笑ってしまう。  彼は不服そうにしていて、更に可愛くて抱きつく。すると顎を上げられて、端正な顔が近づいてきた。  目を瞑って優しく腰と頭を支えられて、もう少しでくっつきそうになった。その瞬間、咳払いと扉をノックされた。  ビクッとして見てみると、鬼の形相をした咲良さんがいた。恥ずかしくなって僕は、目を逸らしてしまった。 「社長、この前も言いましたよね? 会社で不埒なこと、しないで下さいって」 「……はい、すみませんでした」  彼が借りてきた猫のように、顔を真っ青にして頷いていた。怖っ……でも僕には、優しく微笑んでくれた。  まあでそれでも、怖くて何も言えなかったけど……。それからしばらくの間、彼はずっと咲良さんに怯えているように見えた。  それからというもの、僕たちは幸せな日常を送っていた。そんな十月後半のある日のこと。  彼が車に忘れ物をしたことに気がついて、忙しそうな彼に変わって僕が取りに行った。  助手席をドアを開けようとした時だった。急に後ろから口元に何かを当てられた。 「な……に」  意識を失ってしまったらしく、何も覚えていない。全身が凍えるような寒さに、目を開けるとニヤニヤ顔の花向さんがいた。  状況はよく分からないけど、手足と口元を動かせないようにされていた。僕が必死に声を出そうとすると、気がついたみたいで近づいてきた。  手を差し出されて怖くて、目を瞑ると口元のガムテームを剥がされた。その時のお兄さんの、表情が不気味だった。 「やっと、起きたか」 「な……んで」 「あー、別にお前に用はない。ただ、お前は花楓を誘き寄せるための人質だよ」  そう言って微笑むお兄さんからは、これまで以上の狂気を感じ取った。冗談とかではなく、只々薄気味悪く笑っていた。  そんな時だった。僕のスマホを持って、ニヤニヤしているお兄さんから衝撃的な一言が発せられた。 「このスマホ、GPSと盗聴器のアプリインストールされてるから。あいつ、聞いてるかもな」 「えっ……えっ……」 「ふっ、知らないのかよ。だから言っただろ……マーキングは絶対服従契約だって」  忘れてた……というより、考えないようにしていた。自然と頬を伝って、流れてくる涙を止めることが出来ない。  盗聴器なんて……そんなの僕に何も言わずにするなんて酷いよ……。そんな僕を見てお兄さんは、恍惚な表情を浮かべていた。 「連絡して来ないってことは、おい聞いてんだろ。このままだと、お前の大事なものを消すぞ」  口調も表情も穏やかなのに、オーラが黒く澱んでいるように見えた。体の奥底からお兄さんに対する恐怖が走る。  確かに怖いし、彼が何でそんなことをしたのか分からない。だけど……マーキングとか同化とか、関係なしに僕は彼が好きなんだ。  基本的に優しくてでも、ちょっぴりイジワルで……でもいつでも、僕のこと一番に考えてくれる。  そんな彼がこの世界で一番大事で、一番愛しているのだから。思わず笑ってしまうと、ギロッと睨まれる。 「俺のこと、バカにしてんのか」 「僕は何があっても、彼のことを信じるよ。絶対に、貴方なんかに負けない」  僕が精一杯の勇気で目を見てそう告げる。鬼の形相のお兄さんにナイフを、取り出されて首元に突きつけられた。 「大人しくしとけば、危害は加えないつもりだった。しかし計画変更だ……お前まで俺を見下した目をしやがって!」 「……な、んでそこまで」  僕は必死にそう聞くと、淡々と答える。それが反って不気味で、体が強張ってしまう。 「父さんは俺でも、花舞でもなく! 妾の子であるあいつに、後を継がせる気なんだよ! それが俺にとって、どれだけ屈辱的か分かるか!」 「たっ……」  怒って我を忘れているお兄さんに、ナイフを首元に当てられた。そのせいで、冷たいナイフで僕の首元は少し切れたようだった。  怖くて何も言えないし、体も縛られていて感覚も麻痺してきた。ここは倉庫かな……底冷えしているようで凍えてきた。

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